[*]Like as two peas

Date: Sun, 20 Dec 1998

この世には、自分とそっくりの人が三人は、いると聞く。

私の場合、実家にいた頃、関西テレビでやってた「紳介の人間マンダラ」の中の「もてない君」という恋人募集のコーナーに出てきた冴えない奴が、なんだか毎朝、鏡で見る自分に似ていてヤな感じであった。他の私に似た人がどこにいるかは知らない。

インド洋をずーっと渡って行った所の対岸の火事の話題も気になるけど、日本海を渡った先の対岸の火事も気になる。別に私は火事場に駆けつける野次馬ではないが、対岸の火事で済ますには射程距離の長い火の粉が飛ぶ点では、どちらも気にせずにはいられない。

韓国の大学でヒトの体細胞を使った胚のクローン培養実験が行われたのである。

羊や牛のクローンは既に実現されている。牛や羊なんかだと、良い肉や毛や皮が取れるものを大量に作るという、工業や商業の話が絡んでくるので、純粋に科学の問題にはならないし、相手がヒトではないから倫理の問題にもなりにくい。

科学の世界で実験対象が人間である場合、「ヒト」と表現する。生物学的な意味での「ヒト」なのである。

現代科学は、ヒトとサルとの境目をどんどん分からなくした。科学的にはヒトとサルのDNAの違いは、ウマとシマウマの違いよりも近いのだそうだ。しかし、我々はサルみたいな人を見かけても、あだ名で「サル」と呼ぶことがあっても、彼が生物的にサルだと思うことはない。それどころか、同じヒトでもAさんとBさんのささいな違いに一喜一憂する。

羊のドリーが生まれた時、原理的、技術的にヒトでも可能であることを科学は明らかにした。では、なぜヒトではダメなのか?

私は大学生の時に動物実験を経験した。動物実験が何故行われるかというと、ヒトでやったら色々問題が起こることや、科学の手法でおなじみの、簡便なモデルを使った実験というやつだからであろう。

少なくとも50羽のウサギを私は自分の手にかけている。彼女ら(メスだったので。メスの方が手術侵襲に対して強いのだそうだ)は、概念的にはヒトのモデルなんだから、私はバニーガール大量殺人犯であるのかもしれない。

来年の干支はなんだっけ。え〜っと、うさぎ年だ。などと駄洒落を言っている場合ではない。何かあるかもしれない。もっとも、そんなことを言っていたら丑年には吉野家マックに行けないし、酉年にはケンタッキーに行ったり、ホカ弁で唐揚げ弁当を買ったりできない。

「どうして、動物を殺して食べてもいいの?」という子供の素朴な質問に、親は「食べなきゃ生きていけないんだから仕方ないんだよ。」と答えた。
食べもしないのに、虫や魚や鳥を飼っては死なせてしまった。「寿命なんだよ」
激情のままに蚊を叩きつぶした。「被害を受けたから」
科学の名のもとに睡眠薬を過剰投与してウサギをあやめた。「新たな知識を得るから」

「どうして、ぼくは、こんな風に生まれたの?」という問いに、親は、「五体満足に産んだげただけでも、ありがたく思っとき」と言った。自分でコントロールして産めたわけでもないのに。
「どうして、ぼくを産んだの」という問いには「子供が欲しかったから」と半泣きな顔で答えた。
泣かせてごめんなさいと少し思ったけれど、子供が欲しかったんであって、ぼくを望んだわけじゃないんだ。と思った。
泣かせちゃったので、「じゃあ、どうして子供が欲しいの?」とは聞けなかった。

ヤなガキは、母が月1枚くらい出す半券と、父がその時、何億枚か発行した抽選補助券を集めて1回引いた福引の景品である。何等賞が当たったのかは知らない。貧乏くじを引いたのかもしれない。

病院に行くのは病気の時だ。じゃあ、妊娠出産は病気なのか?確かに、常とは違う、異常な状態ではある。それでも子供が出来るのは普通のことだと思っている人も多い。結婚した人に「お子さんはまだですか?」と平気で聞く。そのせいか、不妊治療と称してやはり病院に行く。不妊は病気か?産まないという選択肢はないのか?

体外受精を試みてシングルマザーになる人もいる。「女として、出産は経験してみたいし、子供も欲しい」と言う。個人の思考(嗜好?)の違いもあるから、いちがいに否定はできないが、これは、そのまま「男としては、孕ませてみたいし」と言うのと同じくらい不遜な態度なんじゃないかと思う。女性の方が自分のお腹をいためる分だけ、her own riskではあるが。

今回の実験は女性から取り出した体細胞の核を、核を除いた卵細胞に移植することによって行われた。そのあと、子宮に戻す操作は行われなかったそうだ。もし、これを子宮に戻して、うまく行けば、歳の離れた一卵性双生児の妹を自分で身籠もることになるはずだ。人為的単性生殖である。実現した時には、「すべての男は不用品である」というどこかで聞いたようなタイトルのエッセイを、残された男は書かなければいけなくなるのかもしれない。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『二十世紀の最後の夜に』岡田斗司夫(講談社, 1800円税別)失われた未来、銀色の世界へのノスタルジー。オタキングの自伝的な大人の童話。読み進むうちに私は震えた。
当時の世 人は環境ホルモンによる生殖能力低下におののき、一方で人口爆発を危惧して産児制限をし、また一方で、他国へミサイルを打ち込む。
当時の私 部屋の大掃除のついでに、エアコンの室外機の上の鳥の巣を解体した。幸い、住人(住鳥?)は転居されたあとのようだった。

目次へ戻る