[*]A master of DAKARA

Date: Tue, 06 May 1997

A master of DAKARA. といってもカラオケで大黒摩季を歌うわけではない。

なにか一言の前にやたらと勝手なことを考えて結論だけを述べてしまいがちな人、まぁ、ありていに申し上げれば私である。私は人と話す場合、十中八九の確率でネタを120%用意しなければ話せない。なぜ20%超過するのかというと、相手がつっこんで来た時の2段目のボケと、相手がつっこんでくれなかった時ののりつっこみの用意をするからである。で、そのような私みたいな人は、相手に前提を話すことなく「だから」で会話を始める傾向があるので気をつけなければならない。

そりゃ、自分は自分で考えてるのだから、今から言おうとしていることが導き出された過程を重々承知であろうが、あいにく相手はそのことを知らない。

ということは、会話の冒頭にこの言葉がいきなり来るのはよろしくない。そこに、ぼくは自分の傲慢を感じて、虚しくなってしまう。「だから」を丁寧に「ですから」にしても同じである。普段、嫌いだと思っている予断や予定調和的表現を自分で使ってしまっていることに不快感を持つ。相手にあうんの呼吸で前提を理解することを求めるという、日本人のnegativeな性質が見え隠れしている気がする。

あらためて考えてみると、日常会話の中で、謎な間投詞的なもの、接続詞的なものはたくさんあるのである。

ぼくの父親は「あれ」の達人である。しばしば、父は、「ひろたけし、あそこのあれをあれしといてくれるか。」と謎の指示をすることがあった。「ひろたけし」というのは、ぼくの弟の「ひろし」とぼくの「たけし」という名前が複合されたものである。四半世紀も一緒に暮らしても、うちの父親は二人の息子の区別が苦手なのか? それはさておき、「あれをあれ」するという、謎の指示代名詞を二つも使った指示はかなりの想像力を必要とするものといえよう。お蔭様で、その息子は訳のわからん妄想をする癖がついたのである。

日常会話で「なんか」という単語が文と文の間に入ることがある。現代日本語会話において、「なんか」は英語で言うところの「Well」や「Let me see」に近い感じがあるとは言え、公的な席ではあまり適さないかもしないなぁ。

ていうか」の使い手がいる。「ていうか」はその出自を考えると「と、言うよりも」であるから、より適切な表現にいいかえるための言葉である。しかし、より分かりやすくするために言い換えたつもりでも、単なる同語反復、いわゆるトートロジーの罠にはまってしまって、なんだか安易な辞書の解説文みたいになってしまう時が多かったと記憶している。「○○」という単語を引くと「××ということ」と書いてあり、「××」を引くと「○○ということ」と書いているようなものである。

「ですけど」の使い手がいた。「ですけど」の使い手には文頭型と文末型がいるのであるが、この人は文頭型であった。文頭で「ですけど」を使うと、これはその前に「(お言葉)ですけど」と入っているようなものだから、相手の意見に対して不同意を示す発言になりがちなのだ。昨今は「だよねぇ」と相手に同意を求める傾向のある人も結構多いので、「ですけど」で会話を始めたら孤立する可能性を高くするばかりであろう。

文末型「ですけど」の場合だと、「一応、自己主張してみましたが、いまいち、自信がございませんので」という一見、謙虚に見えるけど、主張する自我を示すように感じられるのである。似たような例として「〜じゃないですか? 」がある。純粋に疑問文として使う場合には、これは「自分の理解している内容を謙虚に確認する」時に使うと言えるだろうが、疑問ではなく答えでこれを使うと、文末型「ですけど」と同じような語感になる時がある。気をつけないといけない。これは大学の時に同じ研究室にいた留学生に言われて気づいたのである。「村上さん、わたしに何か教えてくれるとき「〜じゃないですか」と言いますね。これは肯定文ですか、否定文ですか。それとも疑問文ですか? 」彼は日本語を学んだ時、文法を一所懸命勉強したので、ネイティブ日本人よりも文の構造に敏感であったりするのである。

「要するに」の使い手の人もいる。しかし、しばしば、この言葉のあとの説明のほうが長くなってしまって、まったく要約になっていないことがある。

やっぱり」という言葉も気になる、これは既に何らかの判断が行われたことを示す言葉だからだ。一時、あまりに周りの人がこれを使うので、「何をあんたは予断に基づいた独断を、あたかも一般論のようにのうのうとて話しているんだ。」と苛立っていた。すこしはその症状もゆるんできたつもりだったが、今でも時折、保険屋のおばちゃんの話を聞いている時に、その発作が出てこまっている。

念のために申し上げるが、これらの単語が悪いのではない。使う場面が適してなかったり、適切な意味になっていないことに不快なだけである。

毎朝の混雑した電車には高校生の姿も見える。彼らの中には、車内でも、まるで自室であるかのように傍若無人に会話する人がいる。そういう感じの人のうちのひとりの男の子が言ったのである。「ていうか、やっぱ、なんか、あれだよね。」これまで、ぼくの中でひっかかってきた様々な例の複合型の発言を耳にして、一瞬、ぼくは凍った。「あぁ、このような日本語の用例もあるのだな。ライブで聞けるなんて、なんと幸せなことだろう。しかし、日本語が乱れちょる。」と喜びとも悲しみともつかぬ思いに囚われたのであった。無理やり英語に直そうとすると、”In other words, needless to say, it is something like that, isn't it?You see?"てな感じになるのであろうか。単語は英語であるが意味不明である。ぼくの誤訳かもしれないが。このような事態は日本語でも起こる。しばしば政治家の発言が「言語明瞭、意味不明瞭」といわれるように。

そんなこんなで、冒頭の言葉が気になりだすとぼくは、なんらかの発言をする前にしりごみする傾向がいつにもまして強くなり、軽い失語症になる。
「そんなに言葉尻をいちいち気にしなくてもいいじゃない。」
「ぼくが気にしているのは、言葉の頭であって、言葉の尻じゃないんだよ。」
「そういうのを、言葉尻をとらえるというのよ。」
そして、ぼくは自分の殻に閉じこもる。

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近頃の本 『こいつらが日本語をダメにした』赤瀬川原平・ねじめ正一・南伸坊(ちくま文庫)路上観察学会の二人と巨人軍と長嶋にはうるさい作家の日本語論。くだらないことにこだわった与太話がおもしろい。
近頃の世 おそらくゴールデンウイークというやつだったはずだ。
近頃の私 休日出勤の電車は楽だ。俺が働く日には他の会社は休んでくれないかなぁと思う。

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