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Date: Sun, 14 Mar 1999

この頃、どっちかというと、いや、「どっちかというと」と判断に困るほどではなく、明らかに忙しい。前にも書いたことがあるが、「忙」という字は「心」が「亡」くなるようで嫌だ。「いそがしい」と平仮名で書こう。なんて言っていると、親父殿が「お前は生き方に対して甘いんじゃ」とか、「世の中には仕事のない人もいるのに、なにを贅沢言ってんのや」と言うのを思い出す。

ひらがなで書くと言えば、余談だが(ま、私の話は全部余談だけど)、私の住んでる辺りでは、近いうちに選挙があるらしく、あちこちに政党のポスターが貼ってあって、名前をひらがな表記にしている候補者が多い。流行りなのだろうか。「ソフト」で「やさしい」イメージ戦略なのかもしれない。選挙権を得て久しい私だが、じつは一度も投票に行ったことがない。

さて、「忙殺」などと書くと、ますます物騒である。まだ「悩殺」された方がいい。それにしても、「悩殺」というのも、なんだか随分と芝居がかった言葉のような気がする。「悩ましい」と「悩んでるらしい」では全然響きが違うが、どっちも「困っちゃう」のには違いない。そんな私は、「コケティッシュ」と「ポケットティッシュ」の違いもよくわかっていない。

「悩」という字と「脳」という字は似ているのが、今日の私の脳の悩みの一つである。偏が「心」か「肉」かの違いである。ということは、「脳」は物で、「悩」は事。「脳」が構造で、「悩」は機能。ハードとソフトのようなもんだと思われる。

「脳」という字は、「月」の部分はいわゆる「にくづき」であるから「肉」体関連だということだ。で、「凵」の部分が器つまり頭骨。「ツ」の所が、オバQじゃないけど毛が三本(もっとも、オバQも連載開始当初はもっと毛があったらしい)。中の「メ」が、問題の味噌のことらしい。

「考え」「悩む」のは脳の機能ということになっている。そう教わったから、そう思ってるだけかもしれない。でも、どうやら脳が物理的に壊れると、うまく考えられなくなるそうだから、たぶん、脳で考えてるのだろう。

それでも、「心」と言われると、胸を意識する人も多いだろう。実際に重さを量ったことはないのだが、心臓は大体にぎりこぶし位の大きさだと聞くから、手の小さい私は、たぶん小心者である。しょっちゅうドキドキする。でも心臓じゃなくて、胃痙攣であることも多い。実は「胸」も「脳」に似ている。「ツ」が「勹」になっただけである。

私が世間に疎くなっている最近、脳死臓器移植が話題になっているらしい。「脳死は人の死か?」いちいちそんなことを脳味噌使って議論しながらでないとやっていけないくらいだから、たぶん、脳死は人の死なのだろう。「脳死」という言葉を考えだしたり、状況を作りだしたのもまた脳であるところが悩みの種だと思う。

悩みが大きくなると頭が痛くなる。でも脳には脳自身の痛みを捉える感覚器はないらしい。じゃぁ、頭痛ってのは、ヴァーチャルな「痛み」の存在位置を頭の中ということにしてるものなのだろうか?ちなみに、「ノーシン」という薬の名前は「脳を鎮める」からだと聞いたことがある。ん?じゃあ「ノーチン」じゃないの?もしや、「脳をシーンとさせる」からか?

多くの生物は脳をあまり使わなくても生きている。ないのだっている。人間は脳の力である医術を使って、脳が死んでも生きていられる。ただ、「脳死を人の死」と認めてしまうと、そこにいるのは「人形(ひとがた)の生物(なまもの)」という扱いになるのだろう。臓器工場はSFの世界だけではなくなるのかもしれない。首から下の部分だけとか、臓器そのものだけが製造されるプラントはゾッとする。でも、生物全般から考えると、なにやら脳というのを使って「ああでもない、こうでもない」とやる人間の方こそ、ゾッとする存在なのかもしれない。

あれこれ複雑なことをやるように進化してきた生物が、ちょっとその取りまとめをしようと、神経の端っこをふくらませたのが脳なのだそうだ。脳が出来たのは脳の意思ではなさそうである。うむ、「脳」は雇われた管理人のようなもんだと思う。そういう見方をすると、脳死臓器移植は雇われた管理人が、勝手に部屋の分譲をしてしまってるようなもんだとも言える。

そんな私は、あんまり臓器提供する意思はない。じゃぁ、どこぞの宗教のように輸血も拒否するのか?と言えば、どうかなぁ輸血がいるような大怪我したら、本人の意思なんか意識不明だろうしなぁ。爪や髪を切るのは自傷行為にあたるってわけでもないしなぁ。風呂で擦り落とす垢とか、トイレに流れる大小のものだって自分だなぁ、ある意味。

では、生体移植だといいのかと言えば、生体移植でも先の管理人分譲問題が出てくるだろう。でも、私の脳的には、もう、それしか道がないのなら、実験的な試みとして、移植もやってみてもいいかもとも思ったりするのは似非理系思考か。

脳死を死として、そこから臓器の提供を受けるのならば、生き残った人は、なんとしても脳を使って活躍して生きていただかなくてはいけない気がする。「脳死を死」とするなら、「脳を使う」ことこそ生きることに違いないから。でもまぁ、人間は脳依存度の高い生物らしいから、普通に生きるだけでも、結構、脳を使っているに違いない。

無論、提供したい人がいて、提供を受けたい人がいて、確実に延命できるのだろうから、それはそれで意味のある行為だと思う。

これは、たいへん、むずかしい問題だなぁ。

と、以前量った時の数値は忘れたけれど、けっこう肺活量のある私は、大きなため息ひとつついて、悩んでるふりをしてみたりするのである。
ため息が大きくなる肺とか、小心者の心臓とか、フォアグラな肝臓とか、ビールばかり漉してる腎臓とか、使えないんじゃなかろうかと思う。
ま、それはその時、考えよう。
といっても脳死になったら考えられないのであるな。おそらく。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『貴方には買えないもの名鑑』原田宗典(集英社文庫, 本体495円)おかしなおかしな架空の品々。
当時の世 増殖する無数の広末涼子と、果てしなくリフレインする、だんごのリズムに目眩がする。
当時の私 以前は脂足でベトベトだった足の裏が、パサパサになってヒビ割れがしている。

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