Date: Mon, 06 Oct 1997
桜木町駅で下りる。日曜日だからだろうか、結構な人出だ。この辺りは横浜のウォーターフロント、MM21(みなとみらい21)の地区である。実際はほんの4年ほど先のことに、明るい未来のイメ−ジを持たせようと安易に「21」という数字を用いる事業に関しては、個人的には胡散臭さを感じることはあっても、あまり良いイメージはない。
それはさておき、すこし歩くと、いわゆる「動く歩道」というやつがある。道路が動くのだから、歩く必要はないから歩道じゃない気もするが、阪急梅田のムービングウォークを歩く関西人のようにせっかちな人は横浜にもいるかもしれない。とりあえず、これに乗るとランドマークタワーの下まで行ける。この道路も、陸橋だか歩道橋だとかは言わず、「ペデストリアンデッキ」と呼ぶそうだ。
ランドマークタワーの下で左に曲がって行ったところに、今回の目当てである、ゆめはまミュージアムがある。
ここで「人体の不思議展 からだ=未知なる小宇宙」
というのをやっている。以前に上野の科博をはじめ全国各所でやっていたのでご存じの方もいるかもしれない。
ペデストリアンデッキは地上4階を結んでいるらしい。会場は23階である。今回の展覧会のために2本のエレベータが直通になっている。一気に上がるので耳がツーンとする。ツーンとした耳に案内係の人の声が届く「人体の不思議展にようこそおいでくださいました。展示されている標本は全て本物の人体からできております・・・」標本ってのは本物に決まってんじゃないのか?人体からできてますって、材料表示みたくモノ扱いしてるし。と思うが、多分原稿を暗記されただけであろう係の人にはつっこまない。
今回展示されているところの標本というのはプラスティネーション標本というやつである。生体組織というのは、そのおよそ6、7割が水分である。その水分を合成樹脂で置換することによって、生体の形状を維持しつつ、アルコールやホルマリンの標本のように漬けておく必要もない標本をつくることができる。
実は、写真ならば、ぼくが好んでエッセイを読むところの解剖学者の養老孟司監修の『[図説]人体博物館』というので見たことがあるのである。養老先生は今回の展覧会でも監修委員会に名を連ねている。その『唯脳論』などの著書の中で、「人は頭の中で考えたことを実現しようとする癖がある。つまり、現代社会は脳の中身を現実化した"脳化社会"である。脳化社会は「思い通り」に造ったつもりだから、現代人は"ああすれば、こうなる”という予定の中で生きている。本来、自然というのは制御不可能性を持つものであり、自然科学というのはその性質を調べる学問であったはずである。脳化の進んだ現代社会にはその対象たる自然は排除されている。止むを得ず残されている自然というのは、他ならぬ、自分のからだである。あなた、自分の身体のことを忘れちゃぁいませんか? 」というようなことを書いている(と思う)。前の文は引用ではなく、ぼくの要約なので、詳しくは原典を当たっていただきたい。
23階にたどり着き、入口で1400円也の当日券一般一枚を買う。半券を返してもらって入ってすぐに、カタログの販売所がある。2500円也。おおむね先に紹介した本で出ている写真なのだが、見たことないのもあるし、大きな版型なので思い切って散財する。
入ってすぐに目に入るのが、人体の横断面スライド標本を頭の先から足の先まで並べたショーケースである。いわゆるCTなんかの断層撮影が画像ではなく、目の前に現物として存在するのである。見ていた女の子が「なんかキレイ」と呟く。エポキシ樹脂で包埋された標本は組織によって自ずから色分けされる。
窓際に並んでいるのは全身標本。よくギャグマンガで驚いた拍子に頭蓋骨が飛びだすというような誇張表現があるが、それを地で行ってる感じである。それなりにポ−ズをつけているので、なんだか生き生きしてみえる。よほど警備の係員の人のほうが無表情にじっと立っていて展示品のようである。
多くの客は張りつくようにショーケースの中の展示物を見ている。けっこうカップルや家族連れが多い。「こんなの見せられたらショック大きいよねぇ」とのたまう女の人がいた。骨格のみの標本を指さして子供が言う。「パパ、これほんもののがいこつ? 」「そうだよ。よく見ておくんだよ。」現代の子供は本物を見る機会があるのだ。ぼくはせいぜい妙にリアルな図鑑をわざわざ買ってドキドキしていただけである。
地上23階の会場なんで、実は眺めが良い。展示品はほっといて、窓から外を眺めながら「あの辺り、キレイになったよねぇ」「あ、あそこ行ってみない? 」と会話する二人づれ。リアルな(いや、リアルの)人体を見て気分が悪くなったのだろうか座り込んでうずくまる少年。
なんだか、人の進みが鈍いなぁと思ったら、そのコーナーは妊婦の方の全身標本。おなかの中には4カ月半の胎児。標本は全て生前からの意志により献体提供されたものですとはいえ、胎児にOKをとってるはずがない。胎児や死体には人権はない。そもそも、人権というもの自体、人が勝手に作った理屈ではある。なんにしても、こういう標本は見ている人にもインパクトが強いらしく、なかなか列が進まなかった。
シリコン系の樹脂で水分を置換した標本は生体に近い弾力があると聞く。今回、会場まで行ったのは、実際に触れる展示物はないのかと期待していたのである。そして、ただ一点、「脳の重さを体験してください」のコーナーで脳味噌の標本を手にとって見ることができた。予想していたよりもズッシリと重かった。この昨今のモーバイルPCと変わらないような重さで、36度くらいの温度で、いろんなことを考えるのだ。水の沸点くらいまで温度が上がる半導体チップじゃ、まだ脳の代用はできそうにない。この脳の提供者は、ぼくに今日ここで弄ばれるとは思っていなかったであろうなどと考えると、すこしは感慨もある。
見るだけなら本やカタログでもよいし、ショーケースのなかでも良い。しかし、「現実性」というのは五感の入力の整合によって認められるものである。ヒトは視覚にかなり偏った生活をしているので、その入力と経験から他の感覚を補完して「現実」的なものを捉えているにすぎない。だからといって、死体は物を言わないので聞こえないし、処理された標本は匂わないし、まさか食べるわけにもいかない。だからせめて、もう少し触りたかった気がしないでもない。
「お手を触れないで下さい」と書かれてても、お子様にはそんな字は読めないので触ろうとする。お母さんらしき人が「触っちゃだめって言ってるでしょ!」とパシッと子供の手を叩く。「なんで、叩くかなぁ。未知のものに触れようという好奇心こそが科学の心だと思うけど、無論、社会的には触っちゃいかんのだろうけど。でも叩くことはないよなぁ。言って聞かせりゃいいのに」と思う。彼氏は彼女の腰に手を回して抱き寄せながら「なんか、これすごいよねぇ」「でも、ちょっと怖くない? 」と会話する。「あなたの中にもその組織が納まっていることを実感できますか?」と聞きたくなるが聞かない。
出口に近づく。解剖学用の模型や、人体グッズ、CD-ROMや書籍の売店がある横に、なんでか『人体の不思議展ご来場記念プリクラ』装置が置いてある。場内撮影禁止だが、プリクラはokなのか。ここはここでまた行列。並ぶのが嫌なお父さんに連れられたお子様が「も〜、プリクラしたかったのにぃ」
どうもぼくは、「『人体の不思議展』を見に来た生きた人々の不思議」を見に行った感がある。大盛況だったので、展示された標本なんかよりもはるかに多くの生きた標本(ご来場のみなさま失礼)を目にすることができた。惜しむらくは場内撮影禁止だったので、それを写真におさめられなかったことか。展示物はカタログで見ることができるけど、生の人物はカタログには入っていないのである。
出口を出ていくぼくと入れ替わりに入場を待つ人々。「近頃は、茶色や赤や金色の人も多いから、黒山の人だかり、という言葉もなんか妙だな。」とぼんやり思いながら、横浜駅方面に歩き出した。
---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『[図説]人体博物館』養老孟司監修(筑摩書房, 3500円)今回の展示は10月19日までである。
当時の世 ウイスキーが安くなったのはアル中ハイマーにはありがたいやらやばいやら。
当時の私 リアルはどこだ。