Date: Sat, 17 Jan 1998
1/17は「震災の日」です。記念日というのは一般にめでたい時のことです。祝祭日という言葉があるくらいです。だから、震災の日を記念日というのは不適切でしょう。しかし、記憶を風化させないために、この日を特別に意識するのでしょう。
地震波にはP波とS波があります。P波がはじめの縦揺れ。S波というのがそのあとのユッサユッサと来る横揺れです。エレベーターなんかにはP波を検出したら、最寄りの階まで行って停止する装置が入ってるそうです。
その日、実家は牛乳屋なものだから、うちの親は未明から配達に出ていました。ぼくは部屋で寝ていましたが、そのP波で目が覚めて、布団の真ん中に「なんや?」とペタコンと座ってました。S波が来ました。「こりゃ、もう、あかんわ」と思いました。暗闇の中、周りで物が倒れる音がしました。足の上に、本棚からすっ飛んで来た本がドサドサと落ちてきました。揺れがおさまりました。ぼくは、死ぬどころか、不謹慎ながら、決死の覚悟をしたわりに、拍子抜けするほどに五体無事。足の上に本が落ちてきただけでした。明るくなってから見ると、ぼくの枕はタンスの上から降ってきた棚の直撃を受けてました。「あのまま寝てたら、ほんまにあかんかったかもしれん」と思うと背筋がぞくぞくしました。
私の生活していた地域では家屋が倒壊しようとも、コンビニは営業してるし、マクドではハンバーガーが買えました。実家のお店も、「水道止まってるし、飲み物欲しいお客さんもいてはるやろ」と平常通り配達してました。
自転車で行ける距離のところでは新幹線の橋桁が倒壊してました。以前にアメリカの地震で見たTV映像のような光景が目の前にありました。
怪我したり、家を失ったり、命を失った人がいても、学校はありました。実家の目の前の中学校には生徒が登校していました。朝礼のあと、すぐ下校してましたが。
ぼくは、ぼくで学会発表の日程は変わりませんでした。学校に行くと、取り合えず片づけた研究室で発表練習をしました。地震でケージが壊れて、飼育室の中を動き回って生き延びたウサギは、数日後、ぼくの手で息を引き取っていただくことが決まっている実験動物でした。
非常事態の下でも、変わらない日常が動いてました。
ぼくは、前より、より一層、わからなくなりました。
なんだか、夜眠るのが下手になったぼくは、以前は宴会のある時しか飲まなかったアルコールを普段でも口にするようになりました。ところが、ぼくはいくらか強かったので、多少飲んでも、あまり気持ち良くなりませんでした。アルコールで外部の感覚がにぶくなるとますますもって内部は孤立し、脳のお味噌の対流は速くなりました。
はたして
思春期にありがちな青年的苦悩なのか
地震によるPTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)心的外傷後ストレス障害
なのかわかりませんが、心の内と外に断層があるようでした。世の中は薄いベールの向こうでした。
震災から3年たって、ぼろいアパートは倒壊を期に更地になって、立派なマンションが立ってたりします。もとの住民の方は家賃が違いすぎて入れないというような話も聞きました。
震災の記憶を風化させないために記憶することにどれだけの意味があるか。
「天災は忘れた頃にやってくる」
と昔から相場が決まってます。かといって、覚えてようが忘れてようが、来る時は来ます。ただ、人災の側面については忘れることなく、改善をはかる必要はあるのでしょう。都市で起こる現象は、決してありのままの自然現象ではありえないのだから。
---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『散歩者の夢想』埴谷雄高(角川春樹事務所,1000円)なんだか書いてることは分かってるんだか分かってないんだか、でもぼくの親和性が高くて、久しぶりに読んでて電車を乗り過ごした。
当時の世 関東地方大雪。関西地方は大震災から3年。
当時の私 独居老人の孤独死の記事を見て、「死はそもそも孤独ではないのか?ただ、死に至るまでの生が孤独であったこと対して同情しているのではないか?」と思うのは不謹慎なんだろうか。