[*]A milk shop

Date: Mon, 16 Jun 1997

ぼくの実家は自営業である.牛乳屋である.牛乳屋だと言っても単なる販売店であって,牧場ではないから牛はいない.弟の同級生が小学校の時に年賀状の住所の丁目と番地を省略して「牛乳や」と書いてもちゃんと届いたくらいだから,地域ではそこそこ有名であるらしい.

昨今は牛乳屋さんは減少傾向にあるが,残念ながら,まだ特別天然記念物に指定されるほどではない.パン屋の副業や,卸売や自販機専門で営業されている所もある.でも確かに宅配をする店は減っているようだ.

うちから少し離れた所の販売店が店をたたんだので,その得意先を引き取ったりしたとかで,ガソリン代を差し引いたら,もうけが無くなるんじゃなかろうかと思われるような遠くの場所にまで配達に行ってたりする.

尼崎市は兵庫県の東の端っこである.電話の市外局番も06だから,ほとんど大阪と思ってよい.川を一つ越えれば,大阪府豊中市である.当然,そこにも得意先がある.幼いぼくが三輪車に乗ったまま行方不明になり,豊中のお得意先のおばちゃんから,「牛乳屋さんとこの子に,よー似た子がうちの前にきてるんやけど.」と保護されたことがあるらしいが,あいにくと,三才よりも前の記憶はぼくにはない.

そんなことだから,ぼくの親だけあって,うちの両親は物理的にも顔がでかいのだが,地域においては息子の予想以上に顔が広い.ぼくの知らないおっちゃんやおばちゃんが「あっ,牛乳屋さんとこの子や」と監視の目を光らせているのだから,めったなことはできない.

小学生のぼくは,1件あたり5円という単価で雇われていた.最高いくらくらいの日雇い収入があったかは覚えていないが,そのころは,真面目に手伝っていたので,配達の経路などはしっかり把握していた.これは後に父が,子供会のソフトボール大会でちょっと頑張り過ぎて膝をやってしまって,何ヵ月か入院しなけりゃならなくなった時に役に立った.そのころはまだ,母も若くて体力があったし,息子は素直な良い子であったからである.今,同じ状況になったら,親はそれなりに歳をとったし,息子はひねてしまったので,店じまいとなるところである.

両親は,ぼくの小さい時より,「家を継がなくてもいいからね.」とずっと言っていたので,さらさらそんな気はなかったし,夜明け前に起きて,夜まで走る牛乳屋さんをやりたいという強い欲求など起こるはずもなかった.世間の人は,どうも牛乳屋は夜明け前にちょろっと働いて暮らしていけていると思っている節があるが,昼間は工場の食堂やパン屋さんに卸しをしているし,宅配便の手先になったり,そこかしこの自動販売機に品物を補充したりしている.晩は晩で次の日の朝の分を配る所もあるのである.

配達と配達の合間に店に戻って来た父は,しばしば,シュカッと125mlの缶ビールを開けて「人間にもガソリンを補充せんとな」と言っていた.「おいおい,おっちゃん.そんなに頻繁にビール飲んで車乗ってたら,酒気帯び運転で捕まるぞ」とつっこんでも,「たくさん汗をかいてるから大丈夫や.」という謎の理論を展開するのが常であった.

牛乳販売店のうちで車といえば軽トラックである.小さい時から助手席に乗せられて,狭い車内でチェーンスモーキングを繰り返されていたので,かなりの量の煙を吸わせていただいたのだが,これがぼくの将来の肺ガンの発症の確率に影響を与えたかは謎である.

軽トラックに慣れてしまっていた体は,普通乗用車に乗せられたりした日にはその乗り心地や静かさに感動するのであった.たばこの煙の充満した車内ではなく,なにか芳香剤のようなものが置かれていたりしたら,何だか贅沢している気分になってたのだから安上がりである.

そんなお仕事にどれだけのやりがいをご当人が感じていたのかよく分からないが,母は時折,「不安定な自営業なんて継がんでもいいから,安定した職業についてちょうだい」と言っていた.30年近く続けておいて,自分の仕事は不安定だから止めろというのもなんだかなぁと思ったりした.母は配達はしなくても良いという約束で結婚したのにだまされたとも言っていた.でも,何の因果か結婚したから父の目標の手助けをしたようなものなのだそうだ.ちなみにその目標とやらは既にクリアされているらしい.

そのだました方の父は,小さなぼくに「好きにせい.勝手にせい」と言いつづけておいて,勝手にしてたら「ちゃんとせい」といきなり怒っていた.「お前を育てるのに,どれだけお金と暇がかかってると思っとんのや.」と言ったりするものだから,なんだかなぁ.人間ひとり育つのにはそれはそれはお金とお暇がかかるのは当たり前だし,手間をかけて育ててみたらろくでもない可能性もあると思うのですが.ま,いいか.

どうもうちの両親は,愛情っていうより,「子供を育てるのは,親の仕事だから」とどこか事務的にやってた疑いがあるのだが,1,2週間に1回,50代も半ばを過ぎたおっちゃんの「声が聞きたくなってん」とベタベタに甘えた声が留守電に入ってたりすると.「これは,実は愛情表現のうちの一種なのだろうか.」と思ったりするのである.

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『マンガ家のひみつ』とり・みき 登場している9人のマンガ家が,なんともぼくの好みとフィットしているのでおもしろかった.
当時の世 debutことINTERTopがやっとこさデビューした.
当時の私 親から「FAX買うたんやけど,よう分からんから,今度帰って来た時に説明して.」と留守電入ってた.

目次へ戻る