Date: Tue, 7 Jan 1997
年末年始、町を歩きながら思ったんですよ。
「なんで、門松は門松なのに竹があんなにえらそうなんだろう。」
何故じゃ何故じゃと思いながら歩いていると、松の枝だけでできた清楚な松飾りを見つけました。理由は見つからなかったけど何だかすっきりしました。
ここで敬愛する一休宗純禅師の作と伝わる歌を一首
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし 狂雲子
一休さんはこれを歌いながら、棒の先に髑髏をくっつけて正月の町をねり歩いたと聞きます。
16世紀の宗教家がこんなことを言っています。「家の中に髑髏を置きなさい。
髑髏がないときには、自分の手でも、指でも、何でもいいから、自分の身体を
見つめなさい。それがやがては消えてなくなるということを、常に思いなさい」
と。それが「メメント・モリ」なんです。
「メメント・モリ=死を思え」の真意は、自分の生きていく姿をみつめること
小池寿子
『自分の死亡記事を書く』ダ・ヴィンチ編集部(メディアファクトリー)より
現代日本では研究者でもない人が髑髏を持っていたりすると、死体遺棄の刑事事件にされてしまうかもしれない。仕方がないので、ぼくの部屋にはハンズで買った髑髏の模型が飾ってある。所詮、模造にすぎないが。
『花〜Memento Mori』Mr.Children(TOY'S FACTORY)を作詩した桜井和寿はそのインスピレーションをうけたという『メメント・モリ』(情報センター出版局)の著者藤原新也との対談で言っている。
あれが一番好きなんです。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」
『沈思彷徨』藤原新也(筑摩書房)より
『メメント・モリ』の中にある河原に打ち上げられた人間の死体を犬が食べてる写真である。死体の人権なんてものはなくなっているであろう日本のニンゲンの死体にはそんな自由は、たぶん、ナイ。
中世の日本の「九相詩絵」と呼ばれる絵画がある。キレイなおねえさんが死に、腐乱しガスで膨れ上がり、犬や烏に食われて、やがて、風でばらばらになる様を描いたものである。現代は事件でもないかぎり、腐る前に死体は処理される。場合によっては、死ぬ前から病院に隠されて人の目には触れない。事件が起きても日本のテレビや新聞が死体の映像を出すことは稀である。
ぼくは大学の研究の時、動物の死には数十回逢った、研究の中での予定通りの死もあれば、予定外の死もある。本来、自然死は予定などないはずだが、そもそも、ここで言っている動物の死は自然の営為の中でのできごとではない。その時も他の個体への悪影響を防止するというので、死後硬直も解けないうちに、本格的な腐乱の始まる前に処理されたので、おそらく九相のうちの始めの二相くらいしか見てないに違いない。それでも色々考えさせられた。しかし、所詮、人工環境の中での死にすぎない。
では、自然の中での動物の死はどうなのか。現代の九相詩絵。宮崎学はその写真集『死 Death in nature』の中に、森の中で見つけた動物の死体を定点観察した写真を載せている。夏の死体はけものが来る前に蛆がわき、速やかに分解されて、骨になる。冬の死体は適度に冷蔵されて他のけものが冬を越すための食料になる。
人間の死体はこの自然のサイクルの中には入れない。それほど過剰な個体数が、この地球上に棲息する特異なけものである。
百聞は一見にしかずという言葉もあるくらい、写真が心をゆさぶる力は大きいが、写真で見る死はあまりに視覚的である。そこには臭いも味も手触りも音もない。またそれを想像しようにも、補完するための経験もない。自分で自分の死を経験した時にはすでに手遅れ。現代の情報溢れるバーチャルリアリティの世界に生きる人たちは、つい脳と目に頼りがちである。せめて、せっかく大きな脳をもっているのだから想像せよ。
視覚だけの世界にはまってるんじゃ、まるで、えっちな本の写真だけでイケてしまうようなもんだ。確かに昔の宗教家が「何でもいいから、自分の身体を見つめなさい。」と言ったかもしれないが、そんなに両足の間ばかり見つめてはいけない。
この世界のどこに本当のリアルはありますか。
この世界は脳味噌の思い込みの産物ですか。
残された自然としての自分の身体は腹がへる。