(む}On the rattan chair

Date: Mon, 14 May 2001

その名前を聞けば、大概の人は「坊や」か「夫人」を思い浮かべるという、そう、エマニエルである。「坊や」の方は、西洋版白木実さんだという噂も聞くが、真偽のほどは確かではない。なお、私は、「当たり前田のクラッカー」というCMも兼ねた藤田まことのセリフを知らないではないが、おそらく、再放送か、「懐かしの…」系の番組で得た記憶と思われる。編集前提の昨今のドラマと違って、当時は生放送だったりしたと聞く。「あの人は今、…」な番組で、「夫人」のシルヴィア・クリステルと「坊や」が同席してたという話も聞くが、私は、あいにく、その番組をチェックし損ねたらしい。

さて、坊やは、いつまでも坊やなのかというのも興味深い問題ではあるし、公衆トイレの洋式のドアに”Western Style"と書いてあっても、果たして、西向きだろうか、西部劇風なんだろうかと悩んだりもするのだけど、今回の問題は、夫人である。最近、DVD化されたらしい。タイトルの横に《無修正》版とある。

はたと思う。「無修正」ということは、オリジナルは「修正」版だったのだろうか。「修正」されたということは、どこか間違っていたのだろうか。だとすると、「無修正」版というのは、間違いをそのまま出すという暴挙なのだろうか。などと大袈裟にボケてみたが、要は、いわゆるボカシが、入っていないと言うことであろう。「ああ、日本語が崩壊してる」と、大袈裟に嘆いてみる。遠い微かな記憶では、プールサイドを歩く全裸の女性の腰の辺りにボカシが入ってたような記憶がある。野暮なぼかしは、かえって猥褻である。裸眼で私が見る世界は「修正済」である。

ヘアヌードの載っている雑誌がコンビニで買えてしまうご時世に、夫人の腰のあたりのボカシが取れたと言って、どうなんであろうか。私は、時折、「エロスとか、エロチシズムというのは何であろうか」という研究のために、雑誌なり映像ソフトなり購入してしまうことがある。いや、「ス」とか「チシズム」とか付けて言い訳をしている訳ではないという訳でもないという訳でも...(無限入れ子。time out待ち)しかし、大枚はたいて、画面いっぱいに広がったモザイクを眺めて「いかがしたものか」と思ったりするのである。それにしても、映画館でスクリーン一杯にぼかしだと、ますます「いかがなものか」ではないか。あいにく私は映画館で見たことがない。あくまで、TV画面で秘密裏にである。

などと考えながら、私はDVD売り場で逡巡しているのである。三部作合わせて、\10,000-(税抜)なのである。おまけにレジ係は、またしても、若手のかわいい女の子なのである。いや別に、歳を取ってればいいとか、男性店員ならいいとか、かわいかったり、きれいだったりしなけりゃいいとか、そういう問題ではないし、若くてかわいくても、私の悩みに理解を示してくれるかもしれないし、結構、事務的に処理してくれるかもしれないのだが、「君が生まれた時には、もうエマニエルは「さよなら」したあとに違いない。」「でもって、裏のバーコードラベルをピッと読み込ませる時には、少々、あられもない写真があるのだ。あう。」などと思うのである。

とか思いつつ、レジに向かう私の手には「エマニエル夫人3部作セット」の他に、「ユー・ガットメール」と「カミ−ユ・クローデル」が一緒にあった。これでは、もう少し若い頃の私が、必至な覚悟でエッチな本を買うのに、マンガや学術書を一緒にレジに持って行ったのと大差ないではないか。

ちなみに、「ユー・ガットメール」はトム・ハンクスもメグ・ライアンも好きだけど、なんか某インターネットプロバイダーや、某結婚情報センターが、協賛で影で糸を引いてそうだったので、敬遠していたのである。

「カミーユ・クローデル」はロダンの内弟子であり、モデルであり、愛人であった女性なんだそうだ。才能もあったのだけど、師匠の真似だとか言われて、認められなくて、師匠は師匠で浮気するしで、気がふれてしまったそうな。余談であるが、「機動戦士Zガンダム」第一話で、ティターンズのジェリド君に「なんだ、男か。」と言われる主人公カミーユ・ビダン君の名前は、彼女に由来しているという。 そんなこって7000円くらい余計に払う羽目になるのである。

さて、デイパックに5巻のDVDを納めた私は、「意識不明の重体になるような事故にあいませんように」と祈りつつ帰路についた。被害者の身元を確認しようと鞄を開けたら、エマニエル夫人三部作セットが出てきました、では何だかなぁであろう。まぁ、そういうなら、自室でなんらかの被害にあって、部屋を捜索したら、などと考えれば、もう、終わってるのである。

籐の椅子に座って足を組んで、こちらに目線を送る夫人の写真のパッケージの表紙を見て、ゾワゾワしながらディスクをセットする。

「あ、フランス語だ。」そんなことは記憶から抜け落ちていたのである。日本語字幕はあるが、日本語吹き替えはない。「ボンジュール」「メルシー」「サバ?」「サリュー」くらいしか分からん。あらためて、英語だと、生半価に聞き取れることもあるから、意味を取ろうとするのだろうなぁ。と思う。口説くというのは、会話が前提なのかなぁ。それにしても、視線とか行為で次々とまぁ、その、なんだなぁ。

航空機の座席で、思わせぶりに、ガーターを付けなおす夫人。んん、キムタク君が「やっぱ、ガーターっしょ」と言っても許してもらえるかもしれんが、私が言うのはいかがなものか、いや、別に私はガーターファンな人とは、言いがたいが、嫌いかと言われると、あり得ないとも言い切れないな。と、どこぞの小便小僧のセリフみたいなノリツッコミしてごまかそうとする。

改めて見直すと、ほとんど記憶に残っていない。一本が90分くらいなのを3本。実際に上映されたのは1974-77とのことなので、もうおよそ25年前である。私がリアルタイムで見たとは思えないから、たぶん、なんかゾワゾワしてる頃に、TV上映されたのを見たに違いない。

奔放な愛の営みに身を任せていた夫人は「さよなら…」の中で、夫と別れて、恋人を追ってパリに飛ぼうとする空港で友達と語りつつ、「あなたもジャンに踊らされていたのよ。」「いや、私たちは実験していたのよ。人とは違う生き方を。」「失敗だったでしょ。」「後悔はしていないわ。」果して、猥褻は芸術に昇華されたのか?昇華するものなのか?真摯に見据えて見えるものは真実なのか?

私は、ある日、風呂に入って血の流れを良くしつつ、エッチな本など見たら、ゾワゾワ度が違うのではないか?と、「実験」を試みたことがある。風呂の蓋を半分だけ開けて、そこに雑誌を乗せ、湯船に浸かりながら熟読する私。いつもより長風呂になった私は、完全にのぼせてしまって、その「資料」を風呂場の横に置き忘れたまま眠りについてしまった。

翌日、母にその「資料」は見つかり、「これ、あんたの?」「いや、私は実験をしていたのだ。違った見方を。失敗だったが。」「ふーん。結構きれいな写真、たくさん載ってるねんなぁ。」果して、猥褻は研究に昇華されたのか?後悔はしていない。だが、少し反省している。若気の至りである。いや、まだ若いつもりだが。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『王様の勉強法』荒俣宏、中谷彰宏(メディアワークス,本体1400円)勉強は中毒性のある劇物である。荒俣先生が言うには、「フランス映画はフランス語が分からないとストーリーがわかりづらいが、アメリカ映画は音を消しても分かる」んだそうだ。
当時の世 暑い。汗ばむ。
当時の私 シャツ一枚しか着てないのに、どうして、ぼくは一人で汗だくになっているのだろう。