[*]Bilingual

Date: Sun, 5 Sep 1999

本を読んでいて、ふと、
「実は、この字に見えるやつは、インクの染みなんだ」
と思ったりする。そう思うと、その染みから意味を汲み取って読めてしまうのがとても不思議な気分になる。

人の話を聞いていて、
「実は、これは空気を伝わる圧力の縦波なのだ」とまでは思わないけれど、
聞いていて話し言葉として意味が取れるのが、どうにも不思議な気がする。

たまに英語の文章なんかを読んでみて、一応、アルファベットは知っているし、中学校以来、それなりに勉強してたので、「んん、英語の文章のようだ」と分かる。単語さえ知っていれば、意味も取れる。

他の国の言語で書かれている文章らしきものを見ても、それを「なんか幾何学模様のようだ」という認識をすることはまれで、「どうやら、これは文章らしい」程度には分かる。文章が分かるというのと、「文章であるようだ」と分かる能力はとりあえず別らしい。

文を読む場合は、時間調整は読み手にお任せなので、中断して辞書を引くこともできるし、前のページに戻ることも、あとがきから読むこともできる。会話となるとそうは行かない。相手の喋ってる言葉はどんどん空間に霧散していくし、それを踏まえつつ、こちらの返事も考えないといけない。大儀だ。
でも、一般に人間は、母国語に関しては読み書きより先に、会話を身につける。

先日、DVDを手に入れて、その媒体の小ささ(まぁ、CDと同じですからね)、頭出しの速さ(テープと違ってランダムアクセスできるからね)に感心した私である。小ささという点では、その昔には、LPレコードのアルバムのでかさに気後れして買えなかった私にとって、映像媒体としてLDの替わりになるものを手に入れたという感がある。それにさほど広くない部屋にVHSテープが増殖するよりは、場所がかせげる。

そんな利点よりもおもしろいなぁと思ったのが、多国語対応ができるところである。外国の映画(ってもほとんどアメリカ製だろうけど)をビデオテープで見ようと思ったら、字幕版と吹替版が別のパッケ−ジなのだけど、DVDの場合、一つのディスクで音声言語や字幕言語を選べるようになっているので、字幕なし英語とか、英語字幕で英語音声とか、英語音声で日本語字幕、あるいは日本語吹替音声とか自由に選べるのである。

その機能を試していて、英語のリスニングはあんまし得意ではないので、字幕なし英語で見ていると、しばしばセリフに頭が追いつかない。

日本語字幕を表示させれば、劇場公開時と似たような状況になるのだけど、それでは画面の下や右に気を取られるような気がする。それに、字幕用の日本語は一目で捉えられるように、少々、はしょっていることがある。スクリーンの中の俳優が、まだジョークのオチは言ってないのに、字幕を見ている日本の観客は先に笑いだしているのではないだろうか。

日本語吹替音声に切り換えてしまったら、テレビで放送される時のようになるけど、それでは、「英語のお勉強だ」という、私の無駄遣いに対する大義名分がなくなってしまう。

ここで、劇場でもTVでも実現しない英語音声で英語字幕というモードで見るのであった。すると、さっき耳だけでとらえていては追いつかなかったセリフにいくらか追いつけるではないか。「ありゃりゃ、やっぱり、「聞く・話す」はできなくて、「読む・書く」に偏ったお勉強をしてきちゃったのね」と思うのであるが、この感覚がおもしろいなぁと思う。

くわしく調査をしたことはないのだけど、英語と日本語で同じ内容の短文を書こうとすると、概して英語の方が字数が多くなる。表音文字だからだろうか。日本語の文字は表意文字もあるので、一瞥で意味が取れることも多い。日本語の方が速読しやすいかもしれない。日本語の文章をパッと見て絵的に捉えることはできるけど、英語の文章はパッと見てもアリの行列にしか見えない。(単に英語苦手なだけやん)

そんな事情で英語の方が字幕も長くなりがち(日本語字幕は意図的に意訳によって短く抑えているという事情もあるだろうが)なのだが、耳は追いつかないのに、目は追いつくことが多い。目の方が速いのか?

音声言語は音圧の縦波であるから、本質的に時間がかかる。それに対して、視覚はそれ自体には実は「時間」というものがない。視覚はそもそも瞬間を捉えるものだからだ。時間的な風景の変化は、頭が「時間」の概念を持ってきてあとから再構成しているらしい。アニメの原理なんかはそれの応用と思われる。黙読していて、目玉を動かす分には、そこに運動があるから、「時間」があるのだけど。

大体、百倍くらい速いらしい。昔の人が「百聞は一見にしかず」と言ってる(強引だなぁ)。
かくして、私は独学お茶の間留学をたくらむのである。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『脳のなかの幽霊』V.S.ラマチャンドラン、S.ブレイクスリー著、山下篤子訳(角川21世紀叢書, 2000円税別)自分が「私だ、私だ」という自己は実はほとんど他人から見える私を構成するためにある。自己の不確かさがおもしろい。導入部の幻肢症(ないはずの手足が動いたり傷んだりする病気)を治す話や、口絵を使った盲点の実験など、おもしろくとても興味深い。
このタイトルからぼくは、ケストラーの『機械のなかの幽霊』、そして、士郎正宗の『攻殻機動隊-GHOST IN THE SHELL-』を想起する。ちなみに、押井守監督のアニメ版『攻殻』のDVDはBilingual対応である。
当時の世 マッキーったら幻覚剤も持ってたらしい。困ったちゃんだ。
当時の私 別にCD回収しなくても、みんなが彼を認めないなら売れないだけだと思う。なんか、法人の手による私刑のようにも思える。

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そして、私は、私の舌や唇や喉がもっと遅いことに、今更気づくのであった。1999/9/9追記