[*]Knife of heart

Date: Wed, 4 Feb 1998

頭の中も、手元の資料も未整理のままだが、覚え書き。今のことは今捉えて置かないと忘れるから。

ほぼ平穏な日常を送り、テレビはほとんど見ないぼくですが例の事件は耳なり目なりに入ってくるのです。中学校で先生が刺し殺された事件です。

なんだかもどかしくも苛立たしい気分になるのです。

被害者の先生は私と近い歳です。 世代論で語るのはあまり好きではないけど、気になるのです。あまりに安易にキレたとか、ムカツクとか、キズついたと言う、すくなくともぼくよりは若い加害者の少年が。また、刺されてしまうような状況に陥った、その私と同世代の先生の境遇が。

刺した人も、刺された人も、安全な地点に立って傍観しつつ勝手に苛立つ私も、同じヒトに違いないのに、なんでそうなったのだろう。

「キレるぞ」という言葉は威嚇なのか。「もう、キレた」という言葉は最後通告なのか。それが言葉の形をしている限りにおいて、言葉は理屈の表れであるから、おそらく「キレた自分」を傍観する自分が存在しているはずである。ある意味、切れてはいない。

大人でも、「酒の席ならば無礼講だ」と、自らが無礼な酔っぱらいであるにもかかわらず、「今はふざけてもいいんだ」と自らの悪酔いを加速させる種類の人がいる。ぼくは「もう、キレた」というセリフに、この種の人に対して感じるのと同種の不快感を感じる。

「キレた」と言われる状況から、犯行に至るまでの手順が、表面的にはあまりに短絡に見えるのが気になる。しかし、内面的には「13年の積年の恨み」があったのだろうか。とくに楽しくもなくつまらない世の中に産み落とされ、学校に通わされていることに対して。

「キレた」という「セリフ」。自分の人生を過剰に演出してたり、演技派である人が増えているのではないか。「キレた」と言うセリフを異常な行動に対する免罪符「だって、キレたんだから」として、あるいは「キレさせられた相手は切らなければならない」というトリガーとして。

同じような服を着て、同じように登校し、流れ作業のように卒業して、同じような服を着て、同じように出勤。学校を出ても、学校とかわらない社会人になることが、約束されているような気がする。「学校という社会」ひょっとして、社会全体が学校のような閉塞感を持っているのではないのか。「社会という学校」になってるのではないか。

ぼくは現場にいるわけではないから、新聞報道と自分の妄想で勝手にイラツク偽コメンテーターみたいです。

あの事件がたんなる異状ならばあまりこわくないのです。それが次元の違う異状としてでなく、大きく振れた「ふつう」の事件として捉えることができるのが、こわい気がします。

持ち物検査でナイフを取り上げたって、心の中の刃は取り除けやしないのに。そうか、ナイフをシンボル視するのは、刀狩りの発想なんだ。シンボルだけで論じても何も解決しないのに。心の刃をなんとかしないといけないのに。

「刺されるよ」が脅しとして成立するには、刺される痛み、刺す痛みを双方が共有してないとありえないはずなのに、だから、刃物を持って示すのは威嚇などではなく、なんらかの独りよがりのかっこつけか、短絡的殺生でしかないのではないか。

テレビドラマでナイフが出てくるシーンに抗議電話が殺到したそうだ。「そういう表現もあろうが、なにも今の時期に…」というのが趣旨だと思う。時期がずれれば、それだけで許される問題なのか?

学校の教育に保護者の組織が介入するまえに、親個人がしっかり生きて、家庭の教育をしてればいいのではないのか。ひょっとすると刺されることもあるだろうという覚悟と共に。

「普段はおとなしいふつうの子なのに」は、あたりまえ、普段とは違う状態だから、おとなしいとは限らない。普段おとなしい子が、何かの拍子に激しくなってもなんの不思議もない。それをもし、「信じられません」というのなら、それはあまりに想像力の欠如である。

中学生の頃が、なんだかわからなさの力にはまりがちなのは、自分の記憶をたどっても分かる。ただ、何の力が相手を殺すまでの結果を要求し、その行為を完遂するまでの力を与えたか。

今回の事件でも、こないだの酒鬼薔薇同様、マスコミ上では被害者の先生の写真が過剰に露出している。インターネット上では少年の実名も流れたらしい。それらにどれだけの情報価値があるのか、私にはよくわからないが。なにか出さないと間がもたないのか。

子供の問題は誰しも深刻に受け止めがちなので、これのせいで、ほんのちょっと前に起こった役人や大学生の不心得のことを棚上げにしてはいけない。

無論、そんなことは自分と関係ないといって平安な日々を送れるような人はそうすればいい。あるいは、そんなことより、自分の生活が大変なのだという人は、懸命に生きてくれればいい。

ただ、この問題をただぼんやりとやり過ごそうと思うと、なんだかムカツクのだ。単なる言葉としてでなく、内臓の反応として、ムカツクのだ。

正しいことなんかないんです。ただ、その人々の体や心の存在があるんです。悪いのは、私や社会が迷惑に感じるからなんです。存在そのものには善悪なんかないんです。でも、人は言葉以外で話すことは苦手なんです。

話にならない話を、力で解消しようとする前に、話にするにはどうしたらいいのだろう。

話をするには相手が必要なんです。相手を殺したんじゃ話ができないんです。

こういう書き方は不謹慎だと言われるかも知れませんが、せっかく人を一人殺したのだから、そして、私たちはそれと同じ時代を生きてしまっているのだから、この高い授業料からなにかを学ぶべきだと思います。社会がどうしても学校化してしまうのならば、せめてそこからなんとか自由研究のテーマでも見つけて勉強するべきです。

と思ったりもするのですが、自分の目先の仕事に目を向けていると、えらそうに考えたつもりになったこの事件のことが、ふと頭からすっかり抜け落ちていることに気づき、もどかしさを感じるのです。

それだけイラツイタつもりでも、ぐっすり寝て起きると、妙にすっきりしていたりするのです。その頭と体の応答がありがたくもあり、そらおそろしくもあるのです。

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当時の本 『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者たちの行方』宮台真司(朝日新聞社,1500円)今回の騒動はぼくがこれを読んでる最中に起こった。時評だからシンクロしがちなのは確かだが。なんかいやな身震いがした。少年を追い込む。(1)成熟社会における思春期前期の危機の深まり(十四歳問題)と、(2)その年代を襲う近年の学校ストレスの爆発(家庭や地域の学校化問題)
当時の世 世間の大人はヒステリックな反応をせずに、大人は大人しく対抗してほしい。
当時の私 はたして、自分には対抗するだけの体力があるだろうか。

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