Date: Mon, 25 Aug 1997
「男らしい」女の人は、概して理屈っぽいところがある。と、こういう言い方をすると、「女は馬鹿だと言ってる? 」と怒る女の人がいるが、そういう風に理屈をこねるあたりこそが「男らしい」所なのである。
「男らしい」女の人に限って「ここは女性らしい細やかな心配りで…」と平然と述べる。ここで「男はがさつだと言ってる? 」と抗議したくなるが、「彼女は自分が”男らしい”ので、いわゆる”女らしい”配慮に対する憧れでああいう言い方をするのだろう。それに、私はがさつでないとは言いがたい」と引き下がるあたり、あまり「男らしく」ないかもしれない。
言うまでもなかろうと私自身は思っているのだが、人格を構成するのは、何も理性だけでなく、感性のようなものもあり、また、それに基づく判断が時として正着であることがある。だから「理屈がない=馬鹿である」などという短絡的な恒等式が成り立つはずがないのである。
ところが、感性派の人は毎回抽象画を仕上げるわけにもいかず、できたとしても相手が理解できるかどうかは疑わしい。言葉で伝えられたらもっと、簡便なんだけど、言葉は理屈の表現形なので、感性派の考えは言葉になりにくい。言葉にならないと、理性派の人に「そんなんじゃ話になんないね。」と一蹴されるので、分が悪い。
近頃は、「男性学」なる学問分野が存在する。初めて聞いた時は、女性誌なんかの「男は、○○なシチュエーションの時、どう考えているのか」特集みたいなもんかと思っていたら、どうやら、男性が「我々、男というのは何なのか?」とクラクラして前後不覚に陥りかねない学問だったりするのである。
フェミニズムの論調でいくと、「男性社会の中で、女は”男でないもの”として扱われてきた」という所から話が始まるのであるが、まぁそれの変形みたいなもので、その上、元来、男の方が自分の存在に理屈をくっつけたくなるらしいので、「弱ったちゃん」や「困ったちゃん」になってしまうのである。
男の生活自立度チェックの方法として「あなたは、洗濯物が外で干せますか」というのがある。
「妻が病気のときなら干せる」(男には、洗濯物を干すための「正当化」 が必要なのだ。)とか、「家の中なら」、あるいは「ベランダでも他人の目にふれないところなら」といった声を多くの方からいただいた。
男たちは、なぜ洗濯物が干せないのか。もちろん、干す能力がないわけではない。「男のメンツ」があるからである。「自分のものならともかく、妻のパンツまではどうも…」などという男性の声もあった。汚れた衣類を洗濯し、それを干すという、あたりまえの行為にさえ、いろいろの意味づけが必要であったり、他人に見られることを恐れたりする。他人の視線をあらかじめ予想して身構えてしまうのだ。このへんが、男の思い込みの奇妙なところだ。
(『男性学入門』伊藤公雄より引用)
概ね、男も料理しよう。掃除洗濯しよう。もっと群れてお喋りしよう。というお話が書かれている。多少、旧来の女性の立場寄りな論調だが、まだ発展途上の学問分野なので、抑圧されていた側に偏りがちなものだろう。
家事については、よく知らないけれど、この頃の男の子は妙に群れてお喋りすることに関しては女の子に負けないように見える。しかし、ここで問題なのは男の子ではなく世の男性一般である。
かくいう私は、幸か不幸か妻のパンツは持ってないので、自分のパンツしか干さないのであるが、色とりどりのトランクスを運動会の万国旗のように干すことには特別な抵抗はない。(ちょっと、真正面のよその家が気になるが)
料理については、センスもテクニックも練習時間もないので、外食やコンビニに頼っている。
そこ〜へ行〜けば〜、どぉん〜な物も〜買〜えると〜言う〜よ〜
とガンダーラの替え唄を口ずさみながら行くと、そこには、買えば口に入れられる物が置いてある。材料の生育を待ったり、調理する必要もない。「ああ、人が社会に適応するということは、自然に対して不適応になるということなのだなぁ。しかし、私のおなかは自然にへるのだ。」と屁理屈を一つ唱えないと飯も買いにいけないあたりが、私の「男らしい」ところかもしれない。
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当時の本 『男性学入門』伊藤公雄(作品社, 1456円)
当時の世 街灯が明るくて暖かいのでアブラゼミは昼も夜も鳴く。ツクツクボウシが鳴いてるので夏も終わりかもしれない。
当時の私 男としてを論じる前にBGMは "人として" by 海援隊