先週、プロジェクターとパソコンを使ったプレゼンテーションを見る機会があって、あんまり目が良い方ではないし、というか、定刻より遅く会場に着いたら、参加のみなさん後ろの方から席が詰まってて、前の方が空いてたので、結構、前の方の列に座った。
小学校で、席替えがあったりすると、「目が悪い子で、前の人と替わって欲しい人いますか?」なんて質問を先生がしていたことがあったが、ノートにしっかり黒板の写しを取ったりしない私は、あんまり見えなくても、あえて、前に行く必然もなかったりした。
映画館くらい大きなスクリーンだと、あんまり前に行くと見づらいとも言えるが、今回の会場は決して映画館ではなく、みなさん遠慮がちなので、後ろ側から席が埋まる。まぁ、パソコンを使ったプレゼンだと、結局、画面で出てくるのをプロットアウトしたものが紙で配られたりもするわけで、板書の写しに懸命になる必要はない。ついでにしゃべりの内容まで書いてくれてたら、あえて、窮屈なイスに長時間座って聞かなくても良さそうな気がする。自分でノートを取る必要がないので、暗がりの中、資料の余白にツッコミを書いて過ごす。
OHP(OverHead Projector)やスライドを使った場合よりは、会場の照明の落とされ加減が弱いので、その点、プロジェクターを使ってると、メモしやすい。あんまり前列で、熱心に書きこみ(と言っても、ほとんど茶々なツッコミ)をしてると、先生に当てられてしまうのではないか。「はい、今、目の合ったあなた」なんて言われないように、目を合わせないよう伏目がち。ちっともスクリーンを見ていない。なんてのは、なんか悪いトラウマか。
自分が以前に、つたない発表をした時もそうだったのだけど、OHPとかスライドとか、プロジェクターを使ったプレゼンとかは、自分で思ってたより、一回り大きなフォントを使って、一段上の見出し情報のみ書くのがいい気がする。中には公然としたカンペって感じで、話す内容を全部書いちゃって、現場で棒読みする人もいる。
やり過ぎると、マーカーを塗り過ぎた教科書か、見出しばかりのスポーツ誌になっちまいますね。で、比較的前に座って、ご高説を拝聴しつつ、スクリーンを見上げて思う。
「あ、俺、全然、スクリーンの字、見えないじゃん。」
思えば、目の前、数十センチのCRTをジッと見る仕事をもう何年もやってるのだ。もとから目が良いわけではないけれど、普段の生活は、毎日、自分ちから決まった通勤路を通って、いつもの電車に乗り、いつもの職場に通い、適当に仕事をして、いつもの自室に帰っているのだ。あらためて視覚を駆使して注意をする場所がないのだ。(一応、路上観察者だから、それなりにキョロキョロしてるのだけど。どっちかいうと、おかしなものを見つけようって感じで、危険を察知しようなんて気はないのね。)
それが、たまのお出かけで周囲の状況がかわると、妙に感じられるのだ。言いたいのは、普段、私は世界をだらしなく、なんとなく、見ているということだ。
それにしも、慣れない環境だと、こんなに見えないものか。慣れた環境だと普段、そんなに「見えたつもり」でいるのか。と思いつつ、職場の人達の顔を思い出そうとすると、ろくにくっきり、思い出せない。
でも、人の顔だと、ぼんやり、なんとなく見えていても、かなり、その人だというつかみ方は出来る。それが、客観的な文字列になると、さっぱり分からなくなる。日本人は、アルファベットだけ使う欧米人に比べると、絵と意味を結びつける機能を、漢字や、仮名に使っているところがあって、人の顔を覚えるのはあまり得意ではないという説がある。
また、漫画や顔文字が発達しているのも、元来、外国語であった漢字を日本語流に訓読みしてしまう文化の影響ではないかという説もある。
近視眼だって、現代生活に適応した、進化なのだという説もある。確かに、視力という点では劣っているのかもしれないけれど。遠くの獲物を見つけるには、建築物は高く。遠くの敵を見つけても、ミサイルといわず、自動車も駆け足でも逃げ切れない速度で迫ってくる。
人の顔だとぼんやり見てると、ソフトフォーカスがかかって、やさしげに見えるかもしれない。(見えてるだけで、相手が怒ってたら困るが)でも、文字はあらゆる所で使われるし、実使用上は、なんとなく書いても、読んでくれるかもしれないけれど、一画まちがうと、国語の試験では×になる。試験でなくても、相手の名前は、さすがに書き損じない方がいいか。と思う。
「これは、ちゃんと眼鏡を合わせて作らんといかんかなぁ。」などと思う。
しかし、私は中学生の頃に、見ず知らずの人に、「君、眼鏡かけても、あんまり、かしこそうに見えへんね」と言われて以来、、、
いや、別に、ぼくは、賢そうに見せたくて、眼鏡かけてるわけでなくて、、、でも、見ず知らずの人が言いたくなるってことは、ぼくは、眼鏡、めちゃめちゃ似合ってないっていうことか?知り合いの人は、知り合いなだけに、言いたくても言えなくて、我慢してたのではないか。ああああああ。
と思考の淵に陥る前に、年に1、2回、健康診断と、免許の更新の時くらいしか出番のない眼鏡をかけてみる。「んん、世の中って、こんなに、くっきりしたものなのね」いや、世の中ってのは大袈裟な、単に部屋の中である。アルコールが入って、くっきり二つ見える視界は、世界が必ずしも一つではないことを、ぼくに教えてくれる。ましてや、他人の視点から、見たら、たぶん「世界」なんていう同じ単語で表すのも不可解でしかたがないのではないか。その辺りは、みなさん「あなたと私では世界が違う」と使うみたいだから了解してるのだろう。
しかし、しっかり眼鏡を合わせたところで、ぼくは、人と話す時に、つい、あさっての方向に目をやりがちであるし、問題からは目を逸らしがちであるわけで、肉体的な視力うんぬんでなくて、精神的な視線に問題があるのではないかと、今更ながらに疑ってみる。
というわけで、眼鏡の新規購入は見送りなのである。心の目の問題だからである。一足飛びに心眼が身につくわけはないのだけれど。
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当時の本 『匂いの記憶 知られざる欲望の起爆装置:ヤコブソン器官』ライアル・ワトソン著、旦敬介訳(光文社,1900円+税)例えば、自分くさい部屋に帰って、自分の布団にくるまると安心するけど、たぶん、他人をくるむと拷問だったりするかもしれない。嗅覚を越えた鼻に残る不思議な器官。しかし、邦題はなんか刺激的だなぁ。原題は"Jacobson's
Organ and the Remarkable Nature of Smell"だそうだ。んん、Remarkableが起爆なのかな?
当時の世 関東また大雪。
当時の私 なんか週末と言えば、雪って感じでお散歩が満足にできず。なんて雪国の人なら言ってらんないのだろうなぁ。