[*]Galiole said...

Date: Mon, 3 Apr 2000

かつて、天動説がおおっぴらに信じられていた頃、人々は、地球は平面でできていて、その向こうには千尋の谷とか、奈落の底に落ちる滝があると信じていたと聞く。いや、平面なんだから、まだ「地球」なんて言葉は無くて、単に「地面」だったに違いない。もすこし前の人は、亀やら象やらが大地を支えてたり、アトラスさんが天空を支えていると思っていたと聞く。

最近の人は、地球の方が動いている地動説というのを学校で習う。自分では地球の方が動いているのだと関口宏である、もとい、知ってるつもりである。外海に出航する船がやがて、船体が見えなくなり、そして、マストがずんずん隠れれていくのを「地球が丸いことの証拠」と思っている。ひょっとすると、その勇気ある船は滝壺に落ちたかも知れないのにである。

「ちゃんと、航海して帰ってくるではないか」そうかもしれんのだが、ひょっとすると、とてもよく似た他人が帰ってきたのかもしれない。それではと、自分が船に乗り込んでみると、元の土地に帰ってこれたではないか。いや、とてもよく似た土地にたどり着いてしまったのかもしれない。

「昨日のぼく」と、「今日のぼく」、そして「明日のぼく」が、同一人物である保証は、ぼくにも自信がない。頼り無い記憶に頼ったり、周りの人が同一人物扱いしてくれるから、自分だと思い込めるのかもしれない。

いつの頃からか、宇宙の果てについて考えることをやめている。果ての向こうにはなにがあるのか。果ての近くに住む宇宙人はどういう感覚を持っているのであろうか。前はそのことを考えるだけでクラクラできたのだが。

いつの頃からか、「ぼくが一歩あるけば、宇宙も一歩分ずれて、いつも自分は宇宙の中心にいるので、果てには、たどり着きようがない」という説を採用することにした。自己中説である。

私の世界、というか視界は通常2π弱ステラジアンであるが、注意力散漫なのに、視野狭窄をして、集中しているように見えることがある。蛇足であるが、ステラジアンというのは立体角の単位で、中心から見て、半径rの球面上でrの面積を見渡すような立体角を1ステラジアンという。球の表面積は4πrだから、全方位を表すのは4πステラジアンになる(だったと思う)。

私の宇宙の中で、視界の観点から、かなり遠い所にあるのは、私の頭のつむじであり、私のうなじであり、私の眉間である。私の小鼻は寄り目にすると見えることがあるので、近い方に入る。私の背中もかなり遠い。

なによりも私の世界は、他人としての私を欠いたままである。唯一、小鼻を除いて、私は私の顔を直接見ることはない。いや、小鼻は一対あるから、唯一ではないか。

鏡の中は左右が反対である。どうして、左右反対で大変なことになってしまっているのに、あんなに澄ましていられるのだろうか。おそらく、鏡のこちらの世界の私がすまし顔をしているからであろう。

以前、どうしても「短」という漢字を書こうとしたら、ついつい、「豆矢」と左右反対に書きそうになることがあったが、きっとそれは「頭」が悪かったのだと思う。「豆」が悪いのだ。「頭」という字は「一口ソ一、一ノ目ハ」って書くんだと、なぞの語呂合わせを刷り込まれた。それと関係あるのか、「頂」と「貯」も苦手だ。

それはさておき。(なにをおくのだ?)

空を見上げながら、「地球の表面の薄い空気の層の底で生きてるのだなぁ」と思うと息苦しくなるけど、なんとか息をしている。

太陽は燃えている。雲は流れている。星は瞬いている。
酸素の分子は見えないけれど、ぼくは、息をしている。
花粉の粒子は見えないけれど、ぼくは、くしゃみをしている。

ふと重力がなくなって、地球の自転の遠心力で虚空に放り出されたらどうしようと心配になって、布団にしがみついている。

それでもぼくは回っている。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『ベトナム戦記』開高健(朝日文庫)世界のどこかで紛争がある。自分の平和がひどくあやうく、ありがたく思う。
当時の世 近所の公園の桜祭りに集まる人々はサクラか。株によって三分咲きからほぼ満開まで
当時の私 4月になったというのが、エイプリルフールの嘘だとしても、エイプリルフールであるならば、それは嘘ではない。

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「知ってるつもり!?」は日本テレビの番組で関口宏はその司会です。
他に最近の世と言えば、有珠山が噴火したとか、小渕総理が倒れたとか、近所の南武線で踏切事故が起きたとか。