[*]Whispering MONOlogue

Date: Mon, 20 Apr 1998

ぼくは、日常日本語会話が苦手である。グローバルビジネスの時代だから英会話くらいは身につけておいた方がいいよ、と勧誘されることもあるが、それ以前に、日本語の会話が苦手である。

英会話が上達するには英語で考えるようにしなければいけない、なんていう話をしばしば聞くが、ぼくの頭は日本語がグルグル回っているので、なかなかそこに他国語の回路を作るのは難しい。

日本語がグルグル回っているのは、ぼくが人と話す場合、120%ネタを考えてからしか話せないからである。20%余計なのは、一人突っ込みと二段ボケの分である。ぼくは、しばしば、会話しているつもりが、単なる独り言を延々と聞かせていることに気付き呆然とすることがある。

そこにはキャッチボールなどなく、どうやら、ぼくは牽制球ばかり投げて、試合の進行を遅らせているようである。たまにホームベースに向かって投げたとしても、ウエストボールかデッドボールである。

相手に向かって、直球を投げれば、「きついね」「つめたいね」「何さめてんの?」と言われる。変化球を投げた場合は、「また、訳のわかんないこと言ってる」と言われるか、あるいは相手はボールが投げられたことにさえ気付かず、後逸している。しかたがないので、自分で拾いに行く。

世の中には、たわいのない会話があふれている。ぼくには、このたわいのない会話をする能力が欠如している。タイミングよく話が合わせられたとしてもそれは、以前に作られて日の目を見なかった在庫にたまたまヒットしたに過ぎない。

たわいのない会話であるから、実体や意味はなく、発言者にとっては、言ってしまえば、あとはどうでもよくなっているにも係わらず、聞いてるこちらは、たわいのない会話の能力が欠如しているので、そこに意味を見つけようとしてコンマ数秒考え込み、やっと返事をした時には、相手はそれが自分の発言に対するリアクションであることに気付かない。

「別にぃ、どうでもいいんだけどぉ…」と話し始められると、「どうでもいいんなら言うなぁ」と思う。言われてしまうと、きっと本当はどうでもよくはないから言ってるに違いないと深読みモードに入ってしまって脳のリソースを浪費する。

「なんで、あんなにみんな、おしゃべりなんだろう」と思ってたら、なんのことはない、ぼくがしゃべらなさ過ぎるだけであった。ぼくもしゃべり始めたら結構しゃべるが、それは、けっしてたわいのない会話などではなく、たわけた独り言である。

聞いてる人からすれば、「わけわかんない」からには、そこには意味はなく、ナンセンスで、たわいがない。どうやら、たわいのない発言をする能力はあるらしい。要は会話にならない。つまり、話になんない。という奴らしい。

話が散漫としていて、主題がぼやけて、話がまとまらずに発散しがちな傾向のあるぼくは、日常日本語会話だけでなく、ビジネス日本語会話も苦手だったりする。屁理屈にのっとった独り言は言えても、理屈に従った論理的説明ができないのはちょっと困る。

郵便受けの隙間は新聞とダイレクトメールで埋まる。
留守電のテープの隙間は、無言電話と間違い電話で埋まる。
電子メールのメールボックスは自分宛の写しで埋まる。
部屋の隙間は雑誌や本や道具で埋まる。
自分の隙間には自分で吐いた独り言が流れ込むが、クラインの壷のようできりがなく。メビウスの輪でできた巻き物にひたすらたわごとを書き付けるのである。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『アタとキイロとミロリロリ』いとうせいこう(幻冬舎文庫, 495円)アタ(あかね)ちゃんと猫のキイロと緑色のラジオミロリロリの夜の公園をめぐる冒険。自意識が出来上がる前の自意識。勝手に流れる子供の時間。
当時の世 エリツィンさんが来たらしい。
当時の私 あれだけひどかった咳が、土日をちゃんと休んだら落ちついた。大気汚染とは関係ないだろう。たぶん仕事アレルギーだ。苦手と嫌いは必ずしも一致しないのがめんどうなところだ。得意と好きも同様。

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