Date: Mon, 28 Dec 1998
ちょっと、今年の締めの話題としては、いまいちだけど、ネットワーク上でネタを提供する者の一人として、この話に言及しておく必要があるかな、と思う次第。いつにもまして、とりとめのないメモのようになってしまった気がするのだけど。
宅配で届けられた毒物を飲んで自殺した人が出た事件である。
これによって、中学三年生がアパートの大家のばあさんを刺し殺した話とかカレー事件とか、湾岸の騒動とかが霞んでしまってる気がしないでもない。もっとも、ふだんから、私が気付いてない事件はたくさん起こっているのは言うまでもない。
なお、私は普段、テレビをほとんど見ない。情報源は朝日新聞の記事だけであったりするのを始めにお断りしておく。朝日の芸風から考えると、この手のネタには過敏に反応している可能性がある。
まず、私は、「死ぬしかない」と思っている人は、「しかない」んなら、なんでさっさと死なないんだ?と思うのである。「死ぬしかないと思うんです」と相談するのなら、その時点で、ひょっとすると、「助けてください」という裏の意味もあるのかもしれないのだが。
でも、今回のケースの場合、「死に方について教えてください。助けて下さい。」という表の意味そのままにことが運んだように見えるのである。別に言葉のあげ足を取るつもりではないが、まさに「自殺ほう助」、助けているのである。我々が呼ぶ被害者は、本人の主観では被救助者である可能性が否定できない。
そんな世界では、何が苦しみで、何が救いであるのか、客観的判断はつきかねることになる。「しかし、自殺ほう助は、れっきとした犯罪なのだ」というまとめ方をする人には、「法律で決まっているから」という以外の「罪」の定義を説明して欲しいと思ってみたりする。
余白が余ったのだろうか(う、なんか馬から落馬している)『完全自殺マニュアル』に言及した記事が書かれている。なるほど、今回の件のホームページは(私は直接見ていないが)薬の致死量なんかが解説しているという辺り近いのかもしれない。じゃぁ、著者鶴見済は間接的自殺ほう助にあたるのか。「ま、あたるのだろうな。」と私は思う。もっとも、当の鶴見は無気力になってみたり、クスリで人格を変えてみたり、踊り狂ってみたりして、「死んでしまうのも一つの手だ」と言いつつも、のたうち回って生きる術を模索しているようにも見える。何も「今すぐ死んでしまえばいい」とは言ってないと思う。
かく言う私も、その本を持っている。私なんかは、「やべ、今自殺したら、この本を参考にしたと思われたりしそうで、なんかちょっとヤだ。」と思うので実行しないのである。荷物が増えるのがなんなので、実家にこの本を放置してきたら、ちょっと心の病になった弟君が、なにやら遺品めいたものを送りつけてきたり、電話で遺言めいたことを言ってみたり、揚げ句に、「兄貴の置いていったマニュアル見て死のうと思ったんやけど」などと口にするものだから、「どうしても死にたいんなら、止めへんから、とっとと死ね!ボケ」と言った。まだ生きてるらしい。
もし、弟が自殺したら、私は自殺ほう助にあたるのだろうか。「あたるのだろうな。」と思う。近頃は言うにことかいて、「たった一人の弟なんやから大事にしてや」と言う。アホか。すくなくとも、私には「死んでやる」というのは、なんの脅迫にも抑止力にもならない。一時期、体育祭とか定期試験を止めないと自殺すると言ってた生徒がいたが、「安い命やなぁ」と思う。なお、「死んでくれ」というのは御免蒙る。
件の男は、「ドクターキリコ」を名乗っていたという。手塚治虫の『ブラック・ジャック』に出てくるキャラクターで、安楽死を請け負うもぐりの医者である。じゃぁ、手塚治虫も間接的には自殺ほう助にあたるのか。「ま、あたるのだろうな。」と思う。ただ、作品全体を見れば、生きていくための助けになる内容、いや、悩みを抱えたまま生きることの告白の方が多いような気がする。キリコは、ブラックジャックの否定しきれないダークサイドに違いないと思う。
人の脳細胞はその多くが抑制系だと聞く。今回の話題と直接結びつけるのは強引だが、人が生きようとするには、滅びようとする意思も同時に抱えていかざるを得ないのではないかという気がする。タナトスの囁きは常に我と共にあり。
なぜ、自死がいけないか。無難な回答は「周りに迷惑をかけるから。」しかし、これも、死亡に伴う一連の手続きが済めば、社会に与えるインパクトはさほど大きくないのではないか。その程度のフォローは効くのが社会ではないか。社会にとって個人がかけがえがなくなっては、社会が立ち行かないだろう。
では、かけがえのない私は何処か?家族や知り合いが悲しむから?悲しむのは遺族の勝手である。その勝手に対して同情できる余裕があるのなら、自ら命を断ったりしないだろう。
必要とされているから生きるというのは、どこか受動的ではあるが、いくらかこの世とのかすがいとして機能するところもあるらしいのだけど。
「しかない」という意思は、本当にその人の意思全体から来る言葉なのか?私はしばしば、自分の中で複数の意見が対立するのを感じる。だから、「しかない」と思い詰められるような意思の強さを、どうして生きる方へ使えないのだろうと思う。でも、本当に熟慮の末の判断と言われると仕方ないかもしれない。
では、頭の意見は「しかない」ことに決定したとして、体の方はどうなのだ。すくなくとも、私の頭が小賢しいことを言いはじめたのは3才よりもこちらである。将来、ぼけてしまって、また体と頭は離れるかもしれない。そうしたとき、自分があやめようとしているその体は、頭の所有物ではない。なんだか安物の辞書のような同義反復になるが、生命が生命たる由縁はその生きようとする活動にあるのだと思う。つまり、自殺は体を道連れにした頭の無理心中である。
今回の事件はネット社会での匿名性とか、容易性とからめて論じられているようだ。だが、私がこの実名を持つことにどれだけの意味があるか。記号としての私の名前。
そして、歩いて行くにはあまりに遠い肉体的な距離感を感じずに、繋がる観念的な世界。
しょせん、ネットの海の対岸の火事なのである。しかし、身体の失われた霊魂だけの概念的なネットのバーチャルワールドでは、対岸、つまり彼岸がまたこれ、此岸になるのである。この距離感、身体感の喪失がネットの危険性だとは言える。
私には、どうしても死にたいと言う人を止める理屈も理由もない。だが、ことこのような事件が起きて、実際に生命を断つ人が出ると、「なにも今、断つ必要がなかった命が失われたのではないか?」この疑念が辛うじて、「罪」の意味を思い起こさせるのである。
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当時の本 『中学生日記』Q.B.B. 作/久住昌之、絵/久住卓也(青林工藝社, 1400円+税)一生で一番ダサイ季節。某国民放送とは関係ありません。あのトホホ感がここまでマンガ化されるとは。
当時の世 正月の飾りを売る店が多い。
当時の私 『YAHOO! INTERNET GUIDE '99.2月号』」(12/25発売)のPicks
of the Dayに私のHPが載った。