Date: Mon, 10 Mar 1997
ぼくは横浜の地下を歩いていました。残念ながらぼくは浜っ子ではなく、ダウンタウンや中島らもを生んだ尼崎市出身の尼っ子なので、右も左もわかりません。くどいかもしれませんが、ぼくはお箸を持つ手の方が右で、お茶碗を持つ方の手が左だということは知っています。左利きを強制的に矯正されなかった人にはこれはあてはまりませんが、ぼくは右利きです。
そんな感じで、右左の分からない見知らぬ土地に行くと、つい電車の上りと下りのホームを間違えてしまって、帰るつもりが遠くに行ってしまうこともあります。そんな時は、「まっ、いいか」と何駅か先で下りてその町で路上観察をすることにしています。
右も左も分からない見知らぬ土地で、地下街をウロウロして、階段を上がって地上に出ると、「ここは何処? わたしは誰? 」になります。いや、「ここは何処」は分かるけど、「わたしは誰? 」には普通なりません。これは単なる私の持病です。
そんなやつが、地下街をウロウロしていると、おそらく、端から見ると、さも時間を持て余しているように見えたのでしょうか。ぼくのタイプではないけどキレイなおねえさんが、「ちょっと簡単なアンケートなんですけど、少々お時間いただけますか? 」と声をかけてきました。なにやら指輪の写真がたくさん載ってる紙を持ってました。「どのデザインがいいと思いますか?」
気がつくと、ぼくはガラス張りのショーケースになってるテーブルの前で、イスに座ってました。キレイな宝石やアクセサリーの入ったキレイなガラスのテーブルに手を乗せて指紋を押捺するのがはばかられて、ぼくは行儀良くひざの上に手を乗せて座っていました。いつのまにか、隣にさらにぼくのタイプから離れているけどキレイなおねえさんが座っていて出口が塞がれていました。
正面のおねえさんが言いました。「ダイヤってどんなイメージあるかしら?」「キレイ、明るい、透明、固い。」「へぇ固いなんて変わったイメージ持ってるのね。」別にぼくが理系の人でなくても、ダイヤの硬度が高いことは常識と思っていたが、そうではないようだった。自分の常識があわないようなので困って、「あの、ぼく、知らない女の人とこれくらいの距離で向かい合って話すの、苦手なんですけど」と言った。すると、隣で退路を塞いでいる方のおねえさんが、「大丈夫よ、この人、オカマだから。」「そうなのよ。よく言われるのよ。オカマっぽいって。」どっちの言い分を信じたらいいのか分からなかったが、どうもすぐに解放してくれそうにないということは分かった。
正面のおねえさんはおもむろに次の質問。「結婚費用にどれくらい用意してますか。あるいは用意するつもりがありますか。」とりあえず、回答用紙に0円と書いた。「えぇ〜それじゃ何にも買えないし、式もできないじゃん。女の子はねぇ、記念の品物とかセレモニーがすごく大事なんだよぉ〜」個人の意見を「女の子だから」という一般に置き換えて語る芸風は私のあまり好むところではないので、この時点でお暇しても良かったのだが、いかんせん、出口はもうひとりのおねえさんに塞がれていた。
次におねえさんはおもむろに、ネックレスの入った箱を取り出した。金銀それぞれ細いのと太いのとで4本入っていた。「あなたが落としたのはどちらの斧ですか? 」ではないが、「どれがいいと思いますか。」というので金の太いのを指さすと「じゃっ、付けてみましょう。」というとササッと立ち上がったおねえさんにバックを取られて付けられてしまった。「う〜ん、普通この金色のゴージャスな方なのは嫌味な感じになるのに良く似合ってるわよ〜」と丸い鏡をこちらに向ける。自分の部屋でもないのに鏡を覗き込むのは妙に恥ずかしい。
時々、自室でもないのに化粧室を使わずに町中だろうと電車の中だろうが鏡を覗き込んで化粧を直す方がいらっしゃるが、恥ずかしくないのかなぁと思う。たぶん、これから会う相手の前で化粧が崩れていることの方が、こんな見ず知らずの町中の人に修正中でポカ〜ンと間抜けに開いた目や口を見られることよりも、その人にとっては何千倍も恥ずかしいのだろうと、ぼくは推測している。それとも、「鏡よ鏡、世界で一番…」な超ナルなモードなのか。そういう人には周囲の人は道端の石ころモード入ってるに違いない。直すは一時の恥、直さないのは一生の恥なんだろう、多分。
そして、おもむろにまた、おねえさんは三つの箱を取り出した。舌切雀なら小さめの箱を選ぶのだが三つの箱の大きさは同じだ。おねえさんはおもむろに三つの箱を開ける。すると、中から大きさの違う三つのダイヤの指輪が出てきた。おねえさんが言った。「三つとも値段を当てられたら一つあげちゃう。」んなもん当たる訳がない。でも一つは当たった。
「婚約指輪ってダイヤと決まってるってご存じ?」いいえ、知りませんでした。ついでにいうと女の人しかもらえないというのも知りませんでした。でも、前に読んだ外国のお話では男女二人とも婚約指輪を持ってた気がするけど?「それは結婚指輪じゃないの?」いや、ちょっと待って、婚約の「約」は約束の約であり、契約の約でしょ。なのに指輪が契約書のように交換されることなく、一方的に送られるものだとすると、これは契約書ではなく担保か何か?「そういう習慣になってるのよ。」また社会を楯にする。そういう考え方、いや考えてないな、そういう無思考は私はあまり好むところではありません。
退路を塞いでいたおねえさんに電話が入ったらしく、道が開いた。しかし、今は首に輪っかをつけられているので、このまま逃げたら泥棒だ。昔、母の磁気ネックレスをふざけて首から下げていたら、その存在感が気になって、かえって肩が凝ってしまったのを思い出す。
それでもおねえさんは食い下がる。「何年か付けていてもらえば、あとで要らなくなってもお買い上げになった値段で買い取らせていただきます。」だの「いずれ必要になるものだから、いまからコツコツとお金を払って手に入れておいた方がいいわよ。」だの。いずれ必要になるから今買うのなら、婚約指輪よりも墓地と墓石を買っておくよ。そっちの方が確実だし。
もし、購入した場合、さきほどの首飾りにとりあえずダイヤをつけておいて、いざ婚約という段になると、指輪に加工してくださるそうだ。「何年も肌身離さず身につけていたペンダントに付いていたダイヤで作った婚約指輪を渡されたら、女の子としては「私のことそんなに思ってくれてるんだ。」ってすごくうれしいんですよ。」もうサイテー。
不慣れ故、自分で首飾りの金具をはずせないぼくはおねえさんに頼んで外してもらって、「買うのが嫌な理由を書いてよ。」というので一筆書いた。「アクセサリーはその出自が宗教的儀式で用いる道具から来ています。つまり、それには祈りと共に呪いも込めることもできます。そのようなものを首からぶら下げて、まだ見ぬ君を待っていてはダイヤに呪いがかかる気がして怖いです。ダイヤは固くてキレイで永遠に輝くのかもしれませんが、ぼくの肉体はひどくブヨっとしていて、精神はさらにもろく、永遠の愛などという概念は存在しないので、それをダイヤで象徴しろといわれても困ります。」
なんだかんだと屁理屈をこねて、ぼくはお店を後にした。気がつくと3時間ほど少々お時間を提供してしまっていた。
去年の4月のことでした。
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当時の本 『大人のための友だちのつくり方』横澤彪(サンマーク出版, 1600円)フジTVから吉本に移籍された横澤さんの知恵を拝借して、自分の中で友達の定義をしようと思った。ぼくの知っている人を友達と認定していいものか?
当時の世 ココ山岡は倒産したのでダイヤは買い取ってもらえない。
当時の私 結婚式によばれたが、世間知らずなので会費の1万円は祝儀袋にいれたものか、ポケットからホイッと出していいものかわからない。