(む}Does time fly like an arrow ?

Date: Mon, 5 Aug 2002

私は普段、時計を身につけていない。なぜかと言うと、今の環境では、そこかしこに時計があって、敢えて身につけなくても、どこでも時刻は分かると思っているからである。

かくいう、私自身の部屋でさえ、目覚まし時計、パソコン、ビデオの本体、およびリモコン、電話、そして普段はちっともしない腕時計。と、6つも時計がある。出掛けたとしても、駅には時刻表と共に時計はあるし、大概のお店には、壁掛け時計がある。狂いはたぶん数分内であろう。

そんな私が、いつもの調子で、時計をせずに出掛けたら、出かけた先では、宿泊室のベッドサイドには時計はあったが、研修室にも、会場にも時計がないのであった。そんな状態で、時間のマネジメントを論じている自分がなんだか滑稽であった。それとも意図的に、時間から隔離された空間なのであろうか。案内のパンフには、わざわざ、持ってくるものとして「筆記用具(書く方)」という表記(はたして、書かれる方は用意されていたのである。)こそあれ、「時計」とは書いていなかったのである。いや、やはり、単に私が時計をしていない。というだけだ。

そんな私の作戦は、日時計と腹時計のシンクロを取ることによって、時刻を知ることであった。んなわけがないのである。私の体内時計はそんな精度は、持ち合わせてはいない。必然的に、「少し早めに現場に行く」あるいは、「時計を持っている人の動きに合わせる」という手であった。思いなおせば、他人の時計は、およそ、この場の人間の数だけある。

「時は金なり」という言葉があるけれど、時間とお金の為替レートは個人ごとに違うし、時間銀行があるわけではないので、どこかに預けておくわけにもいかない。その仕事をやってる最中は、「時間が経つのが早いなぁ」と思ったり「時間が足りない」なんて思うのに、ことが済んでしまうと、なんだか遠い記憶のような気がしたりする。

交換レートは時給のことでしょう。という意見もあるかもしれない。なるほど仕事のスキルレベルが明確、そして単純な仕事ならば、そうかもしれない。

歳を取ると、人生の中での、その時間の割合が小さくなるから、価値が変わるという説もある。生後一ヵ月の乳児にとっては、一ヵ月は、自分の半生ぜんぶであるが、32歳の人にとっては、およそ400分の1くらいだ。これまでボンヤリと生きてきて、余命が一ヵ月となったら、それなりに充実させようとするだろうか。ちなみに、平均寿命というのは零歳児の平均余命のことだそうだ。

目覚まし時計がコチコチと秒針を動かす音が耳障りで寝苦しい夜がある。どのみち、枕元に置いてたんじゃ、目覚ましが鳴った時に、すぐボタンを押してしまってなんなので、遠くに追いやる。よし、これで、時を刻む音は聞こえてこない。心臓がドクドクと拍動しているのが気になる。止めるわけにもいかない。私の体内時計は、いい加減な精度で、時を刻んでいる。

動物が一生のうちの打てる拍動数は同じだという説がある。ゆっくり打てば、長生きできるかと言えば、そうではない。あくまで統計的な数字である。なかなか平均的な家庭の人は少ない。人の顔の平均像は美男美女だそうだ。事故や病気にならずに、つつがなく、一生を終える人は多分少ない。一生の拍動数がたとえ決まっていたとしても、たぶん、時々、ドキドキした方が、楽しい。うまく希釈した毒は、おそらく、薬である。

---MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS------------------------------------
当時の本 『心理療法個人授業』先生=河合隼雄、生徒=南伸坊(新潮社,本体1300円(税別))プロの生徒?南伸坊氏の個人授業シリーズ。わかりかけるのはおもしろい。のだが、わかったのかわからない。
「人の心ってどこまでわかるのですか?」「わかってたまるか(笑)」
当時の世 暑い。夜中に首都圏集中豪雨。
当時の私 積読になっている本を何冊かやっつけようと出張のかばんの中に入れて出かけたのだけど、ろくに読み進まずに重い思いをしただけでした。

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