After the earthquake 揺れたそのあとに

さて、去年の今頃にも震災ネタを書いた気もするが、以前、帰省した際、学生の頃に使っていたパソコンのハードディスクの中から当時の日記というかメモ書きを発掘したので、このところ更新がおぼつかなくなっているのにかまけてアップしてみたりする。なお、去年書いたネタ自体、この時のことを思い起こしながら書いたものなので、幾分重複する。でも、あらためて読むと、臨場感がより強く、かつ、やはり独り善がりな気がする。(ま、その辺りに関しては4年経っても、あまり進歩はない)


Date: Tue, 31 Jan 1995

1995年1月17日未明。僕はどうしたことか目が覚めた。

ずいぶん前に、蛍光燈の豆電球が切れて以来、家の二階の僕の部屋は、寝る時は真っ暗になることになっている。僕は布団の真ん中でちょこんと座った。 今思えば、前揺れで目を覚ましたのだろうと推測されるが、眠りから意識を回復して座り込んだ僕の尻の下で、地震は既に始まりかけていた。激しい音と共に強い縦揺れ。そしてそれに続く大きな横揺れ。「何や、何や~」僕は一人叫ぶ。この振動は、やっとこさ四半世紀を生きようかという僕にとって、未体験ゾーンである。

考えるまでもなく「ヤバイ」という感覚が脳の中に起こる。「このレベルの地震が来れば、あの位置に置いてる物は倒れてくるはずだ。」住人はこの部屋の危険性は熟知しているつもりだ。しかし、感じとしては4,50センチは揺さぶられてるような激しい横揺れの中では、ただ頭を腕でガードして揺さぶられるのみ。まさに手も足もでないダルマさん状態である。 こんな時に、壁や床を押さえたって震動は止まらない。どんなに筋肉を鍛えた人でも無理である。ここで無理矢理揺れに対抗したっていたずらにエネルギーを使うだけである。ダルマさん状態の僕の脳の中の運動を司る分野は開店休業である。なす術はない。

その激しい物音の中で、脳の中の一角に妙に静かに落ち着いた部分を感じる。いつもより明らかに澄んでいる。「純粋に考えているだけ」の状態とでも言うのだろうか?「いかんなこれは死ぬかもしれん」「よくて下敷きだよな」「外もひどいだろうな」「とりあえず頭もガードしたし 直撃来るまでは意識あるやろ」「もうちょっとの間 考えてようかな」「どんなかっこで埋まっとこうかな」「体ちぎれるのは嫌やな」「頭潰れんかったら なんとかなるんとちゃうか」「この状況のメモ書けへんな」「メモ見せる人も無事かどうかわからんしな」「見せる人おらんかったらしゃーないな」「それにしてもよー揺れるな」「そろそろ何か降ってくるやろ」「即死かな それとも まず意識失うかな」「下の部屋で親埋まるんちゃうん」「助かったとしても、町の機能残るんかな」

イメージとしては地図で見られるくらいの広い範囲がドカッと陥没する絵が浮かぶ。重い扉を開けると一面の焼け野原といった絵が浮かぶ。これが昼間なら白昼夢というやつなんだろうけれど、今はまだ夜明け前。 揺れがおさまった。足の上になんか乗ってるが、これは多分、机の上に並べてあった本やCDのどれかである。さっきまで死んだつもりでいた僕は、良くても重傷と思っていた僕は、どこも打ってないし無傷である。

脳の中がモード変換をする。「次はどうする」 とりあえず隣の部屋で寝ているであろう弟に声をかける。「動けるか」「大丈夫や」真っ暗闇の中で手探りで脱出しようとする。どうも体の上や横に物がある。部屋に立ってたタンスや棚や襖のようだ。やはり倒れてきていた。脱出をはかろうと出口へ向かうが、落ちてきたものが、山のようになっているらしく足場がない。バランスをとりながら進む手探りならぬ足探りである。部屋の出口にたどり着く。「こういう時こそ、頭働かせなどうする」未体験の状況に、頭は極めて冷静であるにもかかわらず、的確な指示を出さない。「このまま外に避難するのは寒い」そう思ってベンチウォーマーを手に取るのみであった。「えーい、使えん頭じゃ」僕は地震のおさまった自室で一人わめく。

階段にたどり着いた。階段も物が散乱しているらしく、足元の間隔がひどく狭くなっているようだ。階段を降りきっても、それに続く台所も物で埋まっている。天ぷら油がひっくり返っているようだ。油のにおいがする。 やっと下の部屋にたどり着く。下の部屋はタンスこそ倒れていないけれど、タンスの上に置いていたものは落ち。テレビは棚から飛び出て転がっていた。両親は居ない。そう牛乳屋のうちは、5時にはもう始動しているのである。火曜日のこの日は配達量が少ないので、弟は始動が遅かったから家にいたのである。僕以外みんな配達してる時間なのである。

戸の向こうで、父が「戸が開かん」と言っている。ひずんでしまって開かないらしい。なんとかこじ開ける。「大丈夫か」「何とかね」 父は空が雷の時のように光ったと言っている。電線が切れて光ったのだろうかとも思ったが、大きな地震のときは空が発光する現象もあるにはあるらしい。靴を履いて外に出る。母も帰って来ている。懐中電灯片手に隣近所に声を掛ける。「大丈夫ですか?」こんな時に大丈夫なわけがないのだが、この言葉しか浮かばない。父と一緒に家の裏に回って近所のガスのメーター栓を閉める。車のラジオからは地震の速報が流れる。「5時46分頃、地震がありました…」当事者にとって震度とかマグニチュードの数値は意味をなさないと強く感じる。もう揺れた後である。しかし、情報化時代に生きる人々は「震度4か。じゃあ、あれくらい被害があっても仕方がないな。」という妙なあきらめ方をする。「神戸の方がひどいらしいぞ」そんな情報を知って今どうすると言うのだ。

近所の人々がぞろぞろ出てくる。僕の家の前にある中学校はいわゆる避難場所に指定されているのだが、未だに門は鍵をかけられたままである。すっかり外出用の服を着ている人もいる。「あんた悠長に着替えて出てきたんか。」自動車をまわしてくる人もいる。「どこに乗っていくねん」これは結局、近所のおばあさんが避難していて寒いからと、そこの家族の人が車のエアコンをかけるために持って来たらしいとわかる。

ワーンワワワワーンとアクセルを煽る音とともに近づいてくる原チャリ。いつもこの時間この辺りを走り回ることが、日課になっている彼は、今日も走っている最中だったらしい。何か連れに自慢げに話している。こんな時でさえ彼はアクセル煽る。もう体が覚えているんだろう。地震後も彼は欠かさずこの時間にこの辺りをアクセルを煽りながら走るのである。 「おい、お母さん頭から血出てるぞ」配達中に地震にあった母は、落ちて来た瓦で頭と鼻と腕を打ったらしい。「もう、上からも下からも血止まらんわ」と冗談交じりにいうが、こんな時になるほど女性は大変だと思うのである。

そうこうしてる間に夜明けが訪れた。

停電は結構早いうちに解消した。水道は出ない。明るくなってから自分の部屋に上がってみる。タンスやら棚やら襖やら段ボール箱やらが、絶妙な組み合わさり方で傾いて止まっている。僕が座っていたその場所だけ布団がのぞいている。枕がある場所はタンスの上に置いていた棚の直撃を受けている。おぉ恐い。時々余震が続く中、テレビを見る。マスコミは被害を伝えようとするばかりで、こういう非常時にどうすればいいかと言った情報を流さない。

病院に行った母は、「病院は負傷者でいっぱいで、いつ順番が回ってくるか分からん」と自分も負傷者のくせにのたまって帰ってくる。父は父で、「水道が止まってるから飲み物いるはずや」と使命感を燃やして配達している。僕は僕の部屋をどこから手をつけたら良いか分からず、ただボーッとテレビを見る。

僕の家の正面は、避難所にもなっている中学校である。生徒たちが制服で登校してくる。こんな時でもちゃんと制服を着てやってくる。朝礼をした後、「みなさんは、おうちに帰って片付けを手伝ってください。」という校内放送と共に、ついさっきやって来た生徒たちは帰っていった。

テレビでは今から振り返ったら、大変少ない情報をもとに被害が伝えられている。「そんなに少ないのだろうか?」当然、この時点では、行方不明であるかどうかすら不明な人々が多かったのであるが。専門家は何の前説もなく「ライフライン」だとか「活断層」だとかいう専門用語を使う。「ライフライン」というのは電気ガス水道のことらしいことは分かる。「活断層」ってかつて活動したことがある断層だと?活動したから断層になってんじゃないのか?ぼくは高校までの理科を振り返りながら、テレビに突っ込むのである。そうこうしながら、僕は19、20日に名古屋で予定されていた研究発表はあまり気が進まないのでキャンセルにならんかなと思っていたりしたのである。

傾いたタンスから適当に服を取って、僕は学校の様子を見に行くことにした。町中をスクーターで走ると、道路はひび割れていて、屋根や壁が落ちている家も多くみられた。酒屋さんでは、酒が割れたらしく酒臭い。町の至る所でガス臭い。なかでも一番すごかったのは、新幹線の高架の橋げたが落ちているところであろうか。学校に向かう道も妙に混んでいる。所々妙に波打ったりひび割れた道路がある。 学校にたどり着く。建物の前には消防車が来ていて、建物が黒くなってる所がある。どうやら火が出たらしい。建物内部は何か薬品のにおいがして、立ち入り禁止となっていた。仕方がない帰ろうと思ったがガソリンがない。僕の財布は僕の部屋のどこかに埋もれて行方不明である。知り合いを見つけて千円借りた。どうやら学校周辺のガソリン屋は営業しているようだ。ガソリンを補充した僕は176号線を南下した。

こんな時にも人はコンビニに向かう。弁当→パン→ポテチやクッキー→キャンディーの順に売り切れていくようだ。そんな中、僕は「写るんです」を買うのだった。バイト先のマクドをのぞく。「営業してる。なんてタフな。」しかも繁盛している。「でも、資材来ないだろうな。」と思いながら僕は家に向かった。

所々で、水道管が破裂したのか、マンホールから水が吹き出しているところがあった。 学校には午後にもう一度行ってみよう。僕はまたもテレビをつける。片付けもせずに。被害を伝えるテレビカメラにピースをする子供。こんな子供を「無邪気」というか「バカ」というか、そんな判断をするのもバカらしい。専門家は、ちょっと知識を持った一般人でも言いそうなことしか言わない。建築や地質の専門家は呼ばなくてもいい。災害後にとるべき行動についてよく知っている専門家を呼んで話させろ。アナウンサーが何かこみ上げるような口調で「被災者の皆さん。夢を持って力強く生きてください」と語る。この非日常的現実に弱っている状況を伝えながらである。「何か違うぞ。これは」と相変わらず片付けもせずにテレビ相手に突っ込む僕である。

ふたたび学校へ行く。研究室の中は本棚がひとつものの見事にこけている。パソコンのディスプレイが転んでる。水や電気は止まってる。現場写真を撮る。片付ける。うちの研究室の学生はみな無事であるようだ。もっとも、遠くにいる人は交通が寸断されていて来れないらしい。先輩が19日の発表で使うスライドのフィルムを現像に出したそうだ。おぉ写真屋やっとんのかいや。でも間に合わないかもしれないということなので、OHPを使った発表の原稿も作る羽目になる。やっぱり発表するようだ。一緒に発表する予定だった仲間が、先生を前にして発表の練習をしている。「何か違うぞ。これは。」と心の中で叫ぶ。

家に戻る。僕の部屋は物の山になってるので寝られない。下の部屋で家族でごろ寝。トイレはタイルが落ち、配管が壊れている。たとえ配管が無事だとしても水道はきてない。避難所のトイレに行く。水が流れない水洗トイレはクソの山である。水を汲んで来て流せばいいのにと文句を言っているおばちゃんがいるが、水道が止まってるのに下水道が無事だとどうして断言できるのだろうか。こういう非常時こそおまるや尿瓶が活躍するのだろうか?「とにかく目の前の汚物を流しさえすれば良い」という普段とらわれている概念がどうのこうのとここで講釈たれても仕方ない。男だからといって、その辺りで立小便すれば良いと言うもんじゃない。犬じゃないんだから、そこかしこに匂いをつけてどうするんだ。しかし、幸いなことに次の日には避難所の水洗トイレは復旧した。我が家のトイレの復旧はまだである。


18日。自宅の商売上、飲み物だけはある。しかし、西宮にある牛乳工場は操業できないらしい。僕の記憶が確かなら、バイト先のマクドのミルクやカフェオレもその工場製だったはずだ。ほかの工場の製品を集めて分配する方針らしいが、高速道路網が使い物にならないのだから、品物が来るわけがない。こんな時でも、「製造日が古い」と文句を言うお客さんもいる。当座のお金がないからと勝手にツケにして帰るお客さんもいる。

学校に行く。道路はいつも以上に混雑している。僕は歩道の上をテケテケとスクーターを走らせる。発表のための原稿を作る。部屋を片付ける。昼飯を食いに少し離れたところのファミレスに車で行く。資材が来ないのでできないメニューがあるとのこと。またゴハン大盛りはご遠慮くださいと言われた。中央環状線や171号線はどうしようもなく混んでいる。こんなのじゃ学校に着くのが夕方までかかりそうだ。抜け道を通って学校に戻る。夕方、写真屋からスライドが出来上がったと連絡が入る。学校で試写。細かいところはこの際どうしようもない。心の中は「もう、やってくりゃいいんでしょ。」である。無事だった洋服ダンスから年に何度も着ないスーツを出す。明日は名古屋の商工会議所で午前9時からである。交通網はどうなってるか分からない。とりあえず阪急で梅田まではいける。京都まで出て新幹線か。先輩ととりあえず、それぞれ阪急の始発で出て、梅田の京都線で待ち合わせということにした。


19日午前5時前。こんな時間に起きられるわけがないから、ほとんど寝てない。自分の部屋はタンスが傾いたまま、物で埋もれたままで出発である。園田の駅まで父の車に乗っけてもらう。時刻表なんてないようなもんだから、何時来るんだか分からない。来た電車に乗る。梅田で先輩と合流、京都に向かう。阪急→京都地下鉄と乗り継いでJR京都へ。新幹線の切符を買ってホームへ向かう。ここで謎の外人と出会う。どうやら浜松へ行きたいらしい。「ひかりに乗って名古屋まで行って、こだまに乗り換えて行けば良い。」ってどう言えば良いんだ?応対を駅員に任せてしまう。京都7時発のひかりに乗る。さっきの影響か、新幹線の中の英語のアナウンスが妙に気に掛かる。発表のイメージトレーニングを頭の中で一通りしたあと、持って行っていた本を読む。

名古屋に着く。地下鉄に乗って少し歩いて、途中、人に聞きながら名古屋商工会議所に着く。僕の出番はおそらく11時前である。しかし、今回の震災でキャンセルや遅れる人もいるだろうから、適宜順番を変えると主催側から説明があった。それにしてもこの会議室広いぞ。50人以上はゆうに入りそうじゃないか。こんな大人数の前で発表すんのか。講演会は進む。確かに興味深い話も多い。しかし、心がいまいち乗り切らない。自分の出番が回ってくる。発表10分・討論5分だ。ノドがしきりと渇くが、心の隅が乗り切らず、また別の心の隅が妙に冷めたまま、出番が終わる。自分としてはダサダサの発表であったが、先生は練習のときよりはるかに良かったとおっしゃる。まぁ儀礼的なねぎらいの言葉だろうと解釈する。昼飯、一緒に行った人達は、せっかく名古屋に来たのだからとミソ煮込みうどんを食べていた。何故か僕だけコロッケ定食。その日は午後5時まで講演が続いた。先生方も義援金の寄付を募っていた。

夜、名古屋出身の仲間の案内で晩飯を食いに行く。店のテレビでも兵庫県南部地震のニュースをやっている。「大変やな」「すごい」「かわいそう」の声が客の中でも上がっているが、だからどうすると言うのだ。周囲は間違いなく普段通りの名古屋の繁華街である。その日は初めてカプセルホテルというところに泊まった。大浴場のサウナではどこぞのおやじが、大阪府の中川知事はけしからんと言っている。僕はたっぷりのお湯につかれることが、ただうれしかった。ここは遠く離れた名古屋なのに、浴場のボイラーの震動がどうしても余震のように感じられて落ち着かなかった。しかし、昼間の学会でつかれた僕は寝てしまった。


20日。一緒に行った仲間の中には今日が出番のやつもいる。神戸大学の知っている先生が来ている。まだ若いので年はそう違わない。しかし、そこの学生は来れないそうだ。その先生が代わりに発表していた。先生の自宅は比較的新しいマンションで無事だったらしいが周りは倒壊したり焼失した家屋でいっぱいだったんだそうだ。「人生の経験としてあの風景を直に見ておくのも良いかもしれませんね。」先生はきびしげな声で言っていた。そして今日も朝9時から夕方5時まで続くのであった。学会終了後、うちの先生に晩飯をごちそうになり、車で来た仲間に乗せてもらって帰ることになった。名神で京都までは帰れるだろう。高速の上は消防車や「救援物資搬送中」の紙を貼った車であふれていた。

帰りついた僕の部屋は未だに物に埋もれたままであった。思うように製品の入ってこないうちは、いまだ通常の営業はできずにいた。僕の通常の寝床もない。ここで家族で一緒に寝たのが恐らくこの後苦しんだ原因だと思われる。


21日。朝起きるとノドが痛い。どうも母の風邪がうつったらしい。体温を測る36.8度。僕の平熱は36.2度である。まだまだ微熱だ。店に行ってみる。まだやってる、資材はあるんだろうか。中をのぞく。どうやら今日は仕事が入ってるらしい。おまけに、T1(トレーニングの第一段階)の人のトレーニングだと言う。僕は朝飯用にベーコンレタスバーガーを3個買って帰った。

テレビでは地震が起きたのが午後5時46分だったらとか、東京で同じクラスの地震が起こったらとか、つまらないシミュレーションをしている。あの時間に起こったのが不幸中の幸いだったとか言ってる。不幸中に幸いが起ころうが、不幸は不幸に違いない。感受性の強い人々は不幸中のわずかな幸いに、自分達の運の強さを確認し、希望を持って力強く生きるもんなんだろうか。アメリカでは略奪などが起こってないことを誉めてるんだそうだ。ウチだって飲み物があるからと襲撃されやしないかとちょっと恐かったのである。避難所では風邪が流行っているらしい。うちも似たような状況か。テレビのリポーターが言う「インフルエンザが流行ってます。」インフルエンザは流行性感冒である。流行るのが当たり前じゃないか。ヘロヘロの頭でつっこむ。

さて、クローズワーク(閉店作業)。何でこんな時期にT1なの。フロアメンテ(客席清掃)のトレーニングをする。途中から頭重くなる。咳が少し出る。下痢になる。いかん本格的に風邪だ。帰って体温を測る。まだそんなに熱は出ていない。血圧も測ってみる。こんなデータはこんな時しか取れない。この非常時に物好き心が目覚める。血圧は115/85。脈拍が81と出た。普段から血圧はこんなもんだが、安静時は脈拍が50~60になることが多いから、多少速めである。どうも握力が出んとか言いながら寝る。


22日。体温は37.2度まで上がっていた。血圧計の電池が切れる。懐中電灯用に買った乾電池を分けてもらう。眉間が重い。鼻水・咳が出る。晩は今日もクローズの仕事が入っている。どうやらシンク(洗い場)らしい。メンテで動きまわるのはつらいし、咳きこみながらオペレーション(厨房)をするのも何だから、普段は手が荒れるので大嫌いなシンクであるが、今の僕にはベストポジションと言える。何とかこなして帰ったら、喉がヒーヒー鳴る。ヤバイ。とりあえず倒れたタンスを起こして、布団を敷けるスペースを作っただけの自室。震度4クラスの地震が来たら、確実に下敷きである。しかし寝なくては。「本震より強い余震はない」の法則に従って寝る。せっかく拾った命は、大事にして生きていかなければいけないと言う人と、所詮拾った命ならば、今度どこで落とそうが構わないと言う人がいるならば、僕はどちらかと言うと後者である。とか言いながらどこで落としても構わない命を守るために、養生して風邪を治そうとひたすら寝るのである。


23日。寝返りを打つと体の関節が痛い。鼻やのどが乾いている。体温を測る。38.1度。ついに8度台に突入である。学校に休むと電話を入れる。寝てるんだか起きてるんだか良く分からない意識の下で、電線から水が出たり、水道管から火花が出る夢を見る。きっとこれはライフラインの呪いである。ひたすら、ポカリスエットやお茶を飲む。でも汗が出ない。汗が出ないから体温が下がらない。咳をすると後頭部に響く。ただひたすら寝る。寝てると余震が良く分かる。いちいち反応しては背中が痛い。


24日。目を覚ます。体温は下がっていない。脈拍は90くらいだ。体温計の表示を戻そうと振り回すと腕が痛い。口の中が乾く。親戚から救援物資の小包が届く。肌着やら食料やらが入っている。夕方には熱が38.7度に達する。脈拍は100である。咳は出るときは激しいが少なくなった。しかし、腹の中で胃や腸が痙攣する。ひたすら寝る。寝たままだとこんなに1日が長いとは。と改めて思ったが、動けん。風邪で高熱の時は、成人の場合は1日くらい絶食するのが良いとどこかで聞いたことがある。無理して絶食しなくたって食欲はない。体が欲しがらないからいらない。というのが自然派の医術と言うもんだと講釈たれながら寝る。


25日。目が覚めると少し体が楽であった熱は37.5度まで下がった食欲は少し戻ったが舌があれているし下痢は続いている。だが体温が38度以下になったし食欲が戻ってきたので軽く食事する。五感が少しづつ回復してる感じである。風邪を引いて以来味や匂いが分かりにくかったり音声が聞こえにくかったりだったのだ。この晩やっと汗をかいた。


26日。体温が36.7度まで回復。テレビでは神戸や西宮の惨状が伝えられている。尼崎や庄内や西淀川辺りも結構被害の大きいところもあるのだが、あまり報道されない。僕自身は結果的に、被災者というにはあまりに無事であるが、確実に被害に遭った人は周りにいる。「取り壊されるから出ていかなあかん」という人もうちの得意先の中にも出てきだした。出て行かないまでも、復旧にお金がかかるから当分配達せんといてと言うお客さんもいる。もしかして、うち、大打撃か?自宅居候の僕にはあまり実感的ではない。

体調も戻りつつあるので学校に行くことにする。でも行ってみたけど、咳がひどくてすぐ帰った。またもテレビを見る。インタビューの中の言葉に「やっぱり…」という言葉が多いことが気にかかる。やはりは当然という予想に基づく相互理解を前提にした言葉である。「って言うか…」の後が決して言い換えでなく、「要するに…」の後が必ずしも要約になってないのと同じで、このやっぱりもやっぱり特に意味はないのだろうか。


27日。体温36.1度。血圧118/87脈拍63。咳はまだ出るが、おおよそ普段の数値である。親戚が陣中見舞いに来る。久しぶりに会った僕を見て、「まぁ、たけしくん頼もしゅうなって」と言う。頼もしいお兄ちゃんは昨日まで寝たきりの役立たずだったんだぜ、そんなお愛想言わんでもええて。30日には研究室内の中間報告の順番が回ってくる年末年始→講演準備→地震を言い訳にして、ろくに進んでいないのに報告である。そうこうしてる内に1月は終わるのである。


ほっておいても2月が来た。月が変ったからといって、この惨事を忘れさることはできない。ヒトの脳は耐え難い現実が起こると、ボケたり記憶を一部失ったりして自己防衛する機能があるらしい。つらいことは忘れてしまうのである。くっきりと記憶の残る僕の経験は、おそらく耐えうる範囲の現実だったのだろう。「どうして僕みたいな生きることにいい加減なやつがピンピンしてて、生きていたい人や大事に思われている人が死ぬんだろうか?」と言ってたら、「お前は生きていくことに対して甘いから、そんな考え方するんや」と父に言われた。

僕の繋がれた超高性能生命維持装置<社会>はこの震災でも壊れることなく機能し続け、僕を生かし続ける。大地震は多くの爪痕を残して活断層の底に再び潜伏したのであろうか。次にこのような地球の身震いが起こるのはいつか?現代科学は一般の人が望むような何月何日何時何分と特定する予知は行えない。あくまで確率が高いという範囲でしか議論できない。たとえそれが90%の確率で予知できたとしても、それを信じて逃げようとする人と、かまわず仕事をする人がいるに違いない。
専門家の意見「今回の災害は予想の範囲を越えていました」
一般の意見「どうして予想してないんだ。」
理由:予想してなかったのではない。予想の「範囲」を越えたのだ。今回のような地震の起る確率は極めて低いと予想していたから。起るはずのないものに備えるのは無駄と言うやつだからである。起るはずないというのは、勝手に人が思ってただけである。負け惜しみっぽいけど、確率は低いけど起ると予想していたという科学的意見もあるかも知れん。現代科学は確率に従ってしか議論できない。おそらく確率的には今回の地震で、壊れている可能性が高いとされるのに壊れなかったものもあるはずである。

社会は僕の思惑とは特に関係なく動く。僕はいわゆる「社会人」ではない。しかし、僕も社会を構成しているうちの一人であるはずである。僕の役割は何だろうか?学校の仲間の中には、被災地にボランティアに行っている人もいる。今年が卒業の人達は卒業論文の追い込みに忙しそうである。僕は、ちょっと本を読んで、ちょっとバイトして、ちょっと研究して、ちょっと考えて「なんかおもしろいことないかな」と自分からおもしろくしようと行動しないで不満を言い続け、何気に生きている日常を取り戻しつつある。

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