The YEAR 2000 problem 西暦2000年問題

留守電のランプが点滅している。再生のボタンを押す。
「1件です。」と電子的な声の後、ガーッとテープを巻き戻す音がする。いつもより、少し長い。
普段の留守電は、
「・・・ガチャン・プ-ッ・プ-ッ 某月某日何時何分」
という無言電話ばかりなので、数件たまっていても、巻き戻しはすぐ終わる。

ガシャと巻き戻しが終わって再生が始まる。
「もしもし、お母さんです。新しいパソコンが来てんけど、ウインドウっていうのになって、消し方わからへんねん。教えてくださあい。ガチャ。 11月29日午後0時21分」
思わず、「俺はサポートセンターやないっちゅうねん」と声を出してつっこみそうになった。

前に書いたことがあるのだが、私の親の商売は牛乳屋である。別に牧場を経営しているのではなく、牛乳の販売店である。昔は電話で口頭で製造工場に発注して、月末には請求書にせっせと手書きで金額入れて店舗印を押していたのだが、近頃(といっても随分経つのだが)は、タッチパネルのついた端末を使って、電話回線を通してパソコン通信を使って、工場のコンピューターに入力することになっていて、請求書も、管理ソフトがインストールされたパソコンからプリンターでガガガっと(ドットインパクトプリンタなのである。)打ち出されるのである。

これによって、電話の聞き違いによる注文ミスは減ったのだが、工場が回線を開けてくれている時間に繋がないと、結局、謝りながら口で注文しないといけなくなるのだった。なにせ、「下手に押したら壊れるんじゃないか?」と思っている人に使わせるのだから、慣れるまでは恐る恐る触ってたそうだ。

請求書の方も、月末に老眼鏡かけて、眉間にしわをよせて、ボールペンを握る作業からは、解放されたが、毎日の注文変更の入力と、月1回フロッピーへのデータの退避をしなくちゃいけなくなったのである。

しかし、まだ年末年始の大量オーダー(工場も得意先も休みになるので、あらかじめ数を把握しておいて、一日にビン1本な所は年末年始で1リッター1パックとかにまとめるのである)は「正」の字を書きながら手でやってるし、年度末の確定申告の資料なんかは表計算ソフトなど使わずに、手書きの表と電卓でやっているのだから、なんだかなぁである。

こないだ実家に帰ったら、三菱製のペンPCが置いてあって、いったい、うちの家族のどこに使えるんがおるんじゃと思ったら、注文用の装置がこれに入れ替わるとのことであった。父が「こんどからは、うちもウインドウやぞ。」と自慢気である。おそらく、ウインドウズのことを言いたいのだろう。試しに電源を入れてみると、 Windows95の起動画面のあとに、注文入力用のソフトが立ち上がった。どうやらスタートアップに登録されてるらしい。起動時間は前のMS-DOSベースの装置より長くなっている。父はいつも締切り時間ギリギリに入力するから、これだと、間に合わなくなるんじゃないかと心配になる。

「今度な、伝票打ち出す方も、新しいパソコン来るねん。」と言っていたからおそらく、今回トラブったのはこちらの方だろう。パソコン自体がかなり旧機種になったこともあるが、おそらく、2000年問題をクリアするにあたって、修正するより装置ごと入れ換えてしまおうと会社側が考えたのじゃなかろうか。うちにあるこれらの装置は、買い取りでなくてレンタルなのだ。でも、こんな所でトラブっていては2000年よりも先に1999年が迎えられまい。

ただでさえ、こういう機械には不慣れで良く分かってない上に、画面の字なんか小さくて見えないお年寄りに新しい装置を使ってもらうのには、ちゃんとサポート体制を整えていただきたいのだが、そこまで手が回らないようだった。しかし、近頃は販売店の経営者の高齢化が進み、50代半ばのうちの両親でさえ、組合に行くと若手だというから大変である。

受話器を取って、電話をかける。プルルルル、プルルルル、カシャ。
「もしもし、村上牛乳店でございます。」
1オクターブ以上普段の声より高い営業用の声で母が電話に出た。
思わず「どこから声出してんねん!」とつっこみそうになる

「ウインドウの消し方が分からんってなんやねん」
「あのなぁ。スイッチ入れたらウインドウってのが始まってな、それを終わらさんと伝票の入力がでけへんらしいんやけど、終わらし方わからんねん。あんたに電話代使わせたら悪いから、こっちからかけ直すから、あんたそこ居ってや。」ガシャ
電話は切れた。

いまいち状況が見えてこない。でも、どうやら1999年を迎えるどころか、 1998年12月を迎えるのにも困っているようだ。11月分の伝票が作れないのだろう。 50も半ばを過ぎたええ歳の人に、窓の閉め方を教えることの難しさを痛感したのは、それから数分後のことであった。

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS————————————
当時の本 『正しく生きるとはどういうことか』池田清彦(新潮社, 1300円)構造主義生物学の先生が解く社会の仕組み。「善く生きるとは、あなたの欲望を最も上手に解放することだ」「規範は恣意的である。フィクション(仮構)である。」「人は他人の恣意性の権利を侵害しない限り、何をしても自由である。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる。」実現可能性を考えると、これもまた、仮構、絵に描いた餅になりかかってやしないかと思うが、共感はした。


当時の世 天気は良かったけど、小春日和というより寒空。
当時の私 脳味噌が奈良漬け。

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