最近は、あまり本を新しく買わなくなった(自宅本棚から選んで読み返したり、図書館で借りたり)な私ですが、世間的には『バカの壁』で有名な解剖学者の養老孟司先生(私的には『唯脳論』で有名なんだが)の本は一時期、著者買いしてたし、ある意味、私淑していたので、「片付け」に関してご意見を聞いてみる(聞くと言っても、直接お会いしてるわけではない)
子育てに忙しい実の娘さんに、子どものものや服とか散らかった部屋を片付けるように言った時、娘さんが
「どうせすぐに散らかるから片付けても一緒。だから今はやらない。子育てが落ち着いたらやる。」
と口答えされたのに対して
「人はいつか必ず死ぬのだから、それなら今すぐ死ね!」
と言ったとか。
養老先生は『唯脳論』の人なので、都市に住む人々は、脳化社会に生きている。周りの環境を自分の脳が考えるように制御しようとする傾向があると説明する。脳を持つ人間だけど、自分自身の身体は自然である。自然の中で人間が折り合いを付けるには、自然を「手入れ」しなければならない。まだ、多くの人が農家として暮らしていた頃は、それが当たり前だったと説きます。
女性がお化粧したり、月経の手当てをしたり、妊娠・出産があったり、小さな子供たちの動きはワイルドだったり、大人の男性でも髪を整え、髭をあたり、スーツとか来て、身体の自然性を隠匿して脳化社会に生きる現代。
養老先生も東大の解剖学教室勤務の頃は、お亡くなりになる方は、こちらの都合で死んでくれるわけではないから、連絡があれば献体されるかたのご遺体を引き受けに行っていたという話をされていた。
『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』という本の解説を養老先生が書かれているらしい。私は、この本を、まだ読んでないので、他の方の書評を引く。
読んでいただけば、わかる。そういう本だから、じつは解説はいらない。
亡くなって、すぐに処置されなかった御遺体とその周辺の清掃の話である。
「人は死んだら、ゴミになる」と言いたいわけでなく、別の著書などで、養老先生もかつて、とある有名人が「人は死んだら肉になる」と言及していることに、激しく抵抗して、人は死ななくても肉だし、人だ。ずっと付き合っていると、この死体は私だというような感覚になるというようなことを書かれていた。
社会問題まで大きく捉えるつもりはなくても、私は、個人的に片付けが出来ない問題をなんとかしたいのだ。
毎朝、近所の公園まで散歩するのを日課にしている。道すがら、その近隣のおじいちゃんと思われる高齢の男性が毎日毎日、落ち葉を掃いている。自分の家の庭の木でもない。地域へのボランティア精神もあるのかもしれないが、別に、じいちゃんを苛めるわけでも、仕事を作ってるわけでもなく、秋は落ち葉が舞い落ちる。
はたして、私の家には、私以外住んでいないので、私の部屋のゴミたちは、私の身から出た錆であろう。そのまましばらく、野性的な巣窟として棲む手もあるのかもしれないが、一歩、玄関を出れば、私も曲がりなりにも、社会的人間である。
生きている私の周りをプロのハウスクリーニングを呼んでしまう手もあるのだろうけど、いずれ私自身が特殊清掃のお世話になってしまうのかもしれないのだけれど、しばらく生きるのだから、片付けを身に付けた方が生きやすいような気もする。
あれを見て養老さんは「あれこそ男という生きものの世界そのものだ」と言ったのだ。
辺りも面白い。あれ?私の片付け問題は?