It sounds noisy つくつく法師の読経

もう八月も最後、夏も終わりである。幸いにして、ぼくはもう、児童でも生徒でもないので、宿題のラストスパートをかける必要はない。

標本と言い張って、セミの幼虫の脱け殻を並べてみたり、どうみても、ちゃんと処理したのではなく、ただセミの成虫の魂の脱け殻を並べて霊安室状態の箱を作る必要もない。

どこかの子供が、小さい虫カゴに、アブラゼミをギューギュー詰めにして、「ジージー、ジージー」と騒がしくさせている。なんだか、その窮屈さ加減が通勤電車を思い起こさせて嫌だけど、人間の成人は、満員電車の中ではあまり鳴かない。人間の子供は満員電車で「くるしぃ~」「死ぬ~」「キャハハ」「うぎゃぁ」と苦しみによる喜びの悲鳴を上げる時もある。

「かわいそうだから、逃がしてやれば?」と言いたくなるが、思い出してみると、自分もそういうことをやっていた。あれだけやかましい虫カゴが、翌日には静けさを取り戻し、ぼくは「セミってやつは1日しか生きられないんだ」と儚くなったが、図鑑なんかを見ると1週間くらい生きると書いてあった。

しかし、何度捕らえてみても、捕まえたセミの平均寿命は一日だった。幸いにして、ぼくは、「セミが鳴かなくなったから、新しい電池を入れたげなきゃ」などという子供ではなかった。(ほんとにいるのか?そんな子供)

今年の夏はセミの「初鳴き」が例年よりも早かったそうだ。7/25付けの朝日新聞夕刊に「二十三日までに全国五十七ケ所で初鳴きが観測された」とあった。ぼくのネタ帳にも7/20日付けで「外でセミが鳴いてる」とある。

小さい頃、父から「セミは朝早く採りに行かんと、昼間は高いところに登ってる」と教わったのだが、この頃、歩いていて、街路樹の手の届くところで、結構見かける。ぼくの背が少しは高くなったのか。それともセミ捕りをする子供が減ってセミが安心して下りてるのか。

エアコンの室外機からの温風と、街灯の照明にさらされて、昼間と勘違いしているセミは夜中も鳴く。これも寿命を縮めてるんじゃないか?と思う。

今住んでる所ではミンミンゼミの声をしばしば聞いたが、実家に居た頃は、ミンミンゼミは図鑑の中のセミであった。逆に、こちらではクマゼミの声は聞かない。親の田舎の方では、捕まえてみるとクマゼミのメスが多かった記憶がある。メスには山吹色の発声器がついていない。

芭蕉さんの聞いた、岩にしみいる蝉の声ってのは、どのセミだったのだろう。虫の「声」という捉え方は、英語圏ではしないらしい。”voice”でなく”noise” であるらしい。「英米の夏にはなじみ薄いのはセミ」と初鳴き記事から1箇月たった8/25付朝日夕刊コラム「素粒子」にある。「あちらの夏にはセミがいない」

死にかけのアブラゼミが「ジッ、ジジッ…」と今にも消え入りそうな声で、仰向けに舗装道路の上に転がっている。虫の息だ。元気な時でも虫は虫の息しかしないのだが。虫は食事は口から、鳴くのは発声器から、息はおなかの気門から。人は全部口から。ずいぶんと違う。

セミで、かしましいのはもっぱらオスだから、そういう場合は、かしましいの漢字は「男三つ」になるのだろうか。いや、別に女の人がおしゃべりだと、言いたいのではない。

そろそろ、つくつく法師の読経も聞こえてくるから、夏も終わりなのだろう。なんでか、つくつく法師というと、百人一首に出てくる蝉丸を思い起こしてしまう。カルタは苦手なので、もっぱら坊主めくり専門であったが、なんでか、その絵札に出てくる蝉丸の絵が怖いようなおかしいような妙な気分だったのだ。

これやこの~
 

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS————————————
当時の本 『人間は笑う葦である』土屋賢二(文藝春秋, 1381円)哲学教授の教えは、ちっとも堅苦しくなく、むしろ悪ふざけが過ぎるような気がする。可笑しい。


当時の世 関東から東北で大雨。
当時の私 蝉丸も怖いが、トランプのJ,Q,Kも、じっと見ると結構怖い。

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