A Happy New Year! あっ、半被ゆうのは服ですわ

とりあえず、年が明けたことになっているから、年頭のごあいさつをするところである。

誰が決めたか、わからないけど、年が変わったのである。

お月さまの形の変化なら見た目で分かる。満月が十五夜だと言われると、なんとなくそうかなと思える。

現代は太陽暦であるから、お日さまの運行をもとにしているのだろう。夜の長いのは思索に耽るのにはいいような気もするが、闇に飲み込まれそうで恐い気もする。でも夜が一番長い冬至の日が年末だか年始だかになっているわけではない。微妙にずれている。

ぼくはほとんど年賀状を出さない人だが、出すにしても、一応、カレンダー上で年が明けてからにすることにしている。年末から「明けましておめでとう」と嘘を書いて、元旦に相手に届けるわけにはいかない。将来のことを語ると、鬼が笑うなどというが、多くの人が、「元旦に年賀状を届ける」ということだけのために、年末にこぞって嘘をつく。中には年賀状を出したあとに年末に事故にあって亡くなる方もいる。鬼は笑いすぎて横隔膜が痙攣しているに違いない。

今年も、実家に帰って、宛て名書きソフトのオペレーターをやった。来年からは郵便番号も7桁になるので、ソフトもハードも入れ換える必要があるかもしれない。プリンターだって、今使っているのは葉書印刷の時は手で位置合わせをしている。なにも考えずにデータ通りに印刷したら、ご本人がご逝去していたり、喪中だったりして使えないのが2、3通。門松は冥土の旅の一里塚

今、我々が使っているカレンダーは、4年に1回、2月の長さが1日変わる。みんなが、ありがたがっている初日の出は、ひょっとすると、大晦日か1月2日の間違いである。こんなことなら、毎日、朝が来ることをありがたく思っていた方がいい。

ぼくはほとんど年賀状を出さない。年が明けたらすぐに顔を会わす人とか、電子メールや手紙や電話のやりとりのある方には特に年賀状を出すことはない。もっとも、年賀状でしかできないネタを思いついた場合はこの範疇ではない。

いつのころからか、人は予定通りに過ごすことを正しいと感じるようになった。元旦に「昨日は去年だったスペシャル」という番組をやっていた。いい加減、ビデオ編集が前提になった世界では、冗談もメタな段階に入っているようだ。ここでいうメタというのは楽屋落ちあるいは内輪受けというやつで、普通の視聴者さえも内輪に入っているところが恐いところである。録画番組の冒頭で「生放送でお送りしております」と言ってウケたりするのもこの種である。予定通りに過ごすのが得意な人は、お約束ジョークで受けるのも得意である。

いつのころからだろう、正月恒例のかくし芸大会のメイキングで一つの番組が成立し出したのは。ぼくは、「この人達は、なんで、年末収録の番組で、明けましておめでとうございますと平気で言えたり、芸が成功して感極まって涙しつつも、冷静に[去年]と[今年]を言い間違えないのか」と思っていた。そして、「この正月というのは、だれかが仕組んだものに違いない」という思いを強くした。

人は予定通りに過ごすことを正しいと感じるようになった。人は手帳に書かれた予定通りに過ごさなければならないと強迫神経症になっている。ぼくは小学生の休み中の計画表を書いてた頃と変わらず、まっさきに「自由時間」を確保する。いまのところ、手帳でいちいち確認しなけりゃいけないような予定はすくない。

もう少ししたら、空気が暖かくなり、昼が長くなり、花が咲く春が来るはずだ。ぼくはそれでいいと思っている。だから、ぼくの部屋にはカレンダーは飾っていない。

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS————————————
当時の本 『ハシモト式古典入門』橋本治(ゴマ書房, 1100円)ハシモト式の解釈によると、徒然草冒頭の「あやしうこそものぐるほしけれ」は「わけわかんないうちにアブナクなってくんのなッ!」である。


当時の世 平成も十年になった。
当時の私 ホームページはじめました。

それでも正月はあった方がいい。良くも悪くも一里塚があった方が、長いんだか短いんだかわからないマラソンも走りやすい。
いつのころからだろう、駅伝やマラソンのテレビ中継でゼッケンと言わずにナンバーカードと言うようになったのは。

 

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