Ordinary people 拝啓 親愛なる普通の人へ

自分で言うのもなんだが、ぼくはちょっと変である。
「変」というのは異常、もしくは異状のことである。
異常というのは、ちょっといつもと違うということだ。
異状というのは、ちょっと妙だおかしいということだ。

おかしいというのは怪しいおかしいと、面白いおかしいがある。
どっちにも「おかしい」という単語が当てられるのが何だかおかしい。
面白いときのことを特に「可笑しい」と当て字することがある。
「笑うべきだ」という当然の「べし」ではなく、
「笑える」という可能の「べし」である。

ぼくは「エキセントリックでありたい」と願う確信犯の偏人である。
変人と書くより偏人と書いた方がいいなあ。
という感じをぼくは持っているのだが、
普通の人からみるとどっちも変な五十歩百歩なのだろう。

自分で言うのもなんだが、ぼくはちょっと変である。
変であることを認定するには、認定者が正常でなくてはならない。
とすると、自分を変であるというには自分がまともでなくてはならない。
まともな人が、自分のことを変だと認定するのは、おかしい。
いわゆる自己言及の矛盾という問題である。

変なぼくは時々、人にたずねられる。
「○○って、普通××だよねぇ。」
変な人に普通の同意を求めるこの方も困った方である。
だが自覚的にエキセントリックであるためには中心の在り処を知っていなくてはいけない。

センターをちょっとはずしたのがエキセントリックなのだから、
中心の在り処がわかってないと、単なる迷える小羊か、自己中である。
だとすると、偏人に普通の認定を求めるその方は正しい方である。
偏心させるには中心の在り処を知っていなくてはいけない。

普通の人は、普通「自分が普通であるかどうか」不安である。
普通の人は、ほっといても普通なのだから、普通にしてればいいのに不安である。
不安であることが普通であるから、普通は異常ではないが異状である。
普通の人は、普通、普通電車に乗らず、あとから参ります急行に乗る。

普通の人は、普通「自分は普通だ」と思っている。
でも自分の家庭は「中の上かな」と思っている。
みんなが「中の上」なら、中の上が真ん中になっちゃうから、
旧「中の上」は新「中の中」である。

自分で言うのもなんだが、ぼくはちょっと変である。
変なぼくは、「自分が変かどうか」不安になったので人に聞いた。
「俺、どうも人と物の見方が違うような気がするんだ。」
「あんまり自分で「おかしい、おかしい」って言ってたら、
人におかしいと思われるから、言わない方がいいよ」

せっかく忠告していただいたのに、隠し通せなかったのは、
しばしば、人から笑われることから明らかだ。
だから、ぼくは普通、変である。

 

拝啓 親愛なる普通の人へ
普通であることは正しいことだと信じて疑わないのならそれはかなりおかしなことです。
謹んであなたを普通の人と認定したことを撤回させていただきます。
敬具

追伸 今まで自分が普通かどうか不安を持ったことのない人は本当に普通の人ですが、
普通はその種の不安を持つものなので本当に普通の人は、普通、かなり変だと言えます。

補足 自分で言うのもなんだが、ぼくはちょっと変である。
従って、普通の人はぼくのいうことをそのまま信じてはいけない。

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS————————————
当時の本 『ふつうがえらい』佐野洋子(新潮文庫, 476円)上の本文と直接関係はない。でも佐野洋子さんの文は心と体の連絡が良くて元気だ。


当時の世 ビールのCMで「一般大衆」が流行語になったのは今は昔である。「パンピー」という用語はひょっとするとすでに瀕死語である。
当時の私 髪が伸びて、くくらずに下ろしたら人に「ロッカーねらってる?」と言われた。ぼくの部屋は本と雑誌と怪しげな品物が溜まってロッカーのようである。お粗末。

 

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