Childhood’s end 幼年期の終わり

いやまぁ、そのぉ、何ですなぁ。(桂小枝風に)

セガとバンダイが合併するらしいですな。新しい社名はセガバンダイになるらしいですが、なんともまぁ銭湯に連れてってもらって、一所懸命に背伸びして自分で入浴料を払おうとしているお子様って感じですなぁ。

「背が番台」なんちて…失礼。

私は残念ながらゲーマーではないので、この動きの社会的な影響ってのが、いまいちピンとこないんですが、ソニーのプレステが売れてる売れてるといっても、シェア的にはまだスーファミの遺産で食いつないでいる任天堂って構図らしい、そいでもってセガはやや追いかけるポジションってことは新聞や雑誌をちらっと見てわかるわけです。

そんな私のセガのイメージは、ゲーセンの機械の方なんですな。もっとも、わたしは自分ではやりませんが。みんなが行儀良く座って、スティックやボタンを操作している姿を見ると、なんだか、CD屋で、行儀良く並んで試聴機の前で密閉型ヘッドフォンをしているお客のイメージと重なって、一様性の恐怖に襲われるわたしです。でも、ゲーマーにはおそらくその指遣いに込められた、テクニックという個性が残されているだけ救いがあるかなぁと思うわけです。誤解のないようフォローしておきますが、当然、試聴機の前の人々だって嗜好の違いという個性を持っているであろうと思います。

小学生の頃「ゲームセンターは不良のたまり場なので行ってはいけません。」なんてのがプリントに書いてあったりして、時々、ドキドキしつつ「不良のお兄さんにからまれたらどうしよう。」と不安になりながらゲーセンに行っても、私には「炎のコマ」はできないのでした。

こないだ帰省した時には、「街からインベーダー類のゲーム機器をなくしましょう。」なんていう、もうすぐ設置後20周年って感じの看板がエッジに赤サビを浮かせながら立っているのを見つけて、「うむ、まさにPTA(注:私の母校では育友会と言ってた気がする)の常識のなかにinvadeしてきたやつらだったのだなぁ。」「しかし、そろそろ、この看板もトマソン化しつつあるなぁ。」と感慨に耽っていたのでした。侵入者は町から出ていくどころか、家庭のなかにしっかりと根づいてしまってたりするのであります。

かたやバンダイですが、私がお世話になってたのは、やはりガンプラですかね。新作の入荷情報が入った時にはチャリを走らせて少し遠くのプラモ屋に行ったり、近くのショッピングセンターの中のおもちゃ屋で買う為に開館前から並んで、建物の扉が開くと同時にダッシュして、エスカレータを駆け上がり店に向かう。でも、残っているのは「量産型ズゴック」しかなくて、仕方がないので、色を塗り替えて「シャア専用」にしたなんてこともありました。そんなこったから、ドラクエやWin95の時の騒ぎを「馬鹿みてぇ」と切るわけにはいかない私だったりします。しかし、ガンダムもしつこいねぇ。いまだに新作のテレビやビデオがでるものな。まっ、ウルトラマンの方が長いか。

長いねぇと言えば、近いうちにSTAR WARSもやっとこさ新作をやるらしいですが、こないだ、電車の中で高校生の女の子らがこんな会話をしていました。「あたし、スターウォーズすごい好きなんだけどぉ、うちらが見るのってさぁ、テレビの再放送かビデオじゃん? 」「だよねぇ。ああいうスケールの大きな映画は映画館でみたいよねぇ。」うむ、そうなのか。おいらは確か、小学校の時に近くの映画館で見て、館内の熱気と見たあとの興奮のせいで、通路に出た途端にゲロを吐いてしまって、おかんにえらい迷惑をかけた思い出がある。そうか、そうなのか。と、これから職場に行って元気出して働かないといけないというのに、通勤電車の中でジェネレーションギャップに悩む私であった。

さて、そういう高校生の女の子の間で人気のバンダイの製品に「たまごっち」があるわけですが、いわゆる育成ゲームですよね。育成ゲームとはちょっと趣向が違うのかもしれないけど、『TEO』のフィンフィンがいますわな。フィンフィンには自宅でお留守番してもらわないといけないけど、たまごっちは一緒にお外に出掛けられるわけです。かまって欲しいとピーピーと鳴くので、エサをやらなきゃなんないし、フンの始末もしなけりゃなんない。でも、そこにエサを手に入れる為の生活もないし、フンもおそらく臭くはない。ああ、また視覚と情報のみにはまってるんじゃないか。と勝手に苛立つ私。

ユーザー(飼い主? )の感想の中に「育てているうちに愛情がわく」なんてのがある。十日かそこらの命のたまごっちに儚さを感じたというのではなさそうだ。たった十日の世話で育てることが出来て育ての親の思いが伝わったなんて思う傲慢を愛情と勘違いしてるのじゃないか。たった十日でお亡くなりになったたまごっちを「うまく育てられなかった」という無念は、おそらく、すぐあとに開始される次の世代に夢として託されるのか。彼女らはたまごっちの世代を越えて包み込む地母神であるというのか。わが子を思い通りに育てようなんていうお母さんに彼女ら自身が育たないことを祈る。案外、いいかげんに育てて、妙に育ったのを楽しんでるのかもしれんけどね。

だが、ぼくは愛は全人格的な衝突だと思っている。誰かを好きになると、そのことで自分の世界観がぐらつき、時として大転換してしまう恐怖を感じる。愛という言葉は自分の世界観を壊す核ミサイルの発射ボタンと同じくらいの重さがあるように思う。そんな簡単に愛の切り売りをしないでほしい。

たまごっちは死にま~すか。フィンフィンは死にま~すか。(さだまさし風で)

考えすぎて頭がオーバーヒートしたので、電車の座席に座って足元に視線を落とす。そこに広がる光景は

NIKE NIKE —- NIKE —- NIKE NIKE NIKE NIKE —- —- NIKE NIKE NIKE

またも一様性の恐怖に襲われる。かく言う自分の両足もNIKEのAIRに食われている。この事態を打開しようとNEW BALANCEの靴に手が伸びかけたが、あのNマークが近所の塾に通う小学生のお揃いの鞄のマークとダブって目眩がする。ひょっとして、あの子らはお母さんの手の平のなかのたまごっちなのではないか。彼らに適切な反抗期が訪れることを祈念する。

まったく関係ないが私が子供の頃の心の友はイマイのロボダッチのタマゴローであった。

たまごっちは成長しても、そのたまご型の筐体を割って出ることはない。閉じ込められた永遠の子供である。最近バンダイ・グループが平均9歳のグループをCDデビュ-させたという記事を読んだ。「ダンスミュージックシーンで、新しいチャイドルに育てたい。」と言う。「チャイドル」というのは誤植ではなく「チャイルドのアイドル」である。しかし、待て、チャイルドは育てばアダルトになるんじゃないのか? そこから育つのはMr. or Ms. Childrenになっちまうのではなかろうか。

本物のMr.Childrenが”Inocent world”を歌ってた頃は、「ああ、また子供氏らが恋愛馬鹿世界の歌を歌ってるよ。」と思って嫌だったのだが、最近はあるがままの心を歌うようになってきたらしく気に入っている。恋愛馬鹿もあるがままといや、あるがままだけどね。

ありのままに生きたありはありだった。(出典忘れた。この手は嘉門か?)

人のことを心配する前に、自分の成長はど~なっとんのじゃい。という声もする。とりとめのないお話はこれで終わりである。読んでしまった人はご苦労さまであります。仕事の文書はこういう書き方をしてはいけません。言いたいことを始めにバシッと述べて、そこからそれを支持する書き方をしないとね。たしか、研修のビジネスライティングの講義でそのように言ってた気がする。ということは…ぼくの言いたいことは「背が番台」??

背丈が番台に届けば、幼年期の終わりということやね。
男の子がおかあちゃんといっしょに女湯に入れなくなるでしょ。

おあとがよろしいようで

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS—————————————
当時の本 『脳型コンピュータとチンパンジー学』松本元・松沢哲郎(ジャストシステム, 1500円)


当時の世 セガとバンダイ合併( のちに、この婚約は解消となった。)
当時の私 「一様性」は、何でも包みこんでくれる母性の優しさであり、かつ、何でも取り込もうとする母性の怖さでもあるわけで、つまり、この文章は私のマザコンの産物だと思われるのです。「私、○○がコンプレックスなんですよ。」なんて言う人が時々いますが、Complexはそもそも複雑なものであるからして、そんなに、○○の一言で表されるものでなく、そのバックグラウンドの世界を明らかにしなけりゃ解決しないと思うんですね。そう思うと、ついつい文章が長くなる。よせばいいのにそれを人に送りつけたりするのは、ひょっとすると、ある種の強迫神経症かもしれんのです。

 

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