The Princess MONONOKE

『もののけ姫』を見てきました。雨が降っているから、少しは人が少なかろうと思いつつも、ちょっと用心して、上映開始の数十分前に映画館に行ったのですが、どうも、ぼくはお子様やお母さんと、オタクらを甘く見ていたようで、初日の1回目の上映に並ぶ人々は長蛇の列になっているのでした。

宮崎駿監督の映画ならば、世の中のお母さんたちも、子供が見にいくことを許してくれるのであろうか、子供だけのグループもいる。小学生の頃、映画館のようなところに行くときは、何故か必ず父兄同伴のことと言われてたような記憶がある。

なんだか、自分が場違いな気がしながら並んでいると、拡声器を持った映画館職員の人が、「ただいまから2回目分の整理券をお配り致します。1回目はここ以降の方は立ち見になります。」何事にも冷めがちなぼくは、ここで、2回目に回ったら見る気がちょっと失せてしまう危険があったので、立ち見で行くことにした。

物語の冒頭、人間に瀕死の重症を負わされ、怒りと憎しみでタタリ神になった巨大な猪神が主人公アシタカの村を襲う。村を守るためにタタリ神に矢を放ち命を奪ったアシタカの右腕に死の呪いの痣がつく。呪いの謎を明らかにするため、猪神に傷を負わせた銃弾の出所を追うアシタカは、タタラ場で鉄を造る人々と、巨大な山犬らと共に戦うもののけ姫との抗争に巻き込まれて行くのであった。

タタラ場の人の側にも、もののけ姫の側にも、それぞれの立場にたった理由があり、どちらが正しいというものではない。アシタカは言う「森と人が争わずに済む道はないのか! 本当にもう止められないのか!」そのような苦悶の中、不老不死の力があるというシシ神の首を求める権力者の側の者たちが絡み、争いは凄惨なものとなる。

民のために豊かな社会を築きたいという意思の下にタタラ場を率いる女性エボシ御前(声:田中裕子)の凛とした語りを聞いてゾクゾクした。格好いい。しかし、その人の営みが森を破壊しているのもまた確かである。

タタラ場の労働者は女ばかりである。男たちはタタラ場を守る兵士だったり、物資を運ぶ運搬係である。タタラ場の女たちはたくましい。山イヌに夫をかみ殺された者が、もののけ姫に銃口を向ける。森を侵す人間を憎むもののけ姫と、夫を奪われ山イヌを憎む女と、どちらが良いなど言えるか?

もののけ姫こと少女サンの育ての母親である山イヌ、モロの幻想的な低音の声。なんとも、もののけ的というか、当たってるなぁと思っていたら声は美輪明宏であった。なんともイイ味がでている。

テーマソングも幻想的ですごくいいのであるが、女性の歌声かと思ったら、歌っているのは米良美一というカウンターテナーの歌手であった。ぼくは、声楽のことは全く知らないのだけど、その筋では有名な人らしい。

カウンターテナー
女声のアルトにあたる声部を歌う男性歌手。主に教会音楽で女性の代わりに用いられ、ファルセットで歌う。
ファルセット
男性歌手が頭声よりもさらに高い声域で歌う技法。また、その声域。仮声。裏声。
頭声
頭に共鳴させて出す高い声。

今回の映画、随所でデジタル映像が用いられている。「見分けがつかないくらいのクォリティー」だと言われていたが、アニメーションにはアニメ独特の技法というか動きのデフォルメ化が行われるものなので、それと違って、妙に計算されてできたように見えるシーンはだいたいCGを使っているのだろう。

また、「今までの宮崎アニメに見られない残虐シーン」とか「天才・宮崎駿の凶暴なまでの情熱が世界中に吹き荒れる。」などと言って煽られているが、腕や首が切れ飛ぶシーンを指してそう言うのだったら、スタジオジブリ作品としては初めの『風の谷のナウシカ』で巨神兵の口から王蟲の群れに掃射される光線は残虐ではないのか?とハテナ印になるぼくである。

ちょっと穿った見方をすれば、物語の終盤の展開は『ナウシカ』の時と同じ構図である。何が違うかというと、『ナウシカ』の時は勇敢なお姫様が単身で体を張るのに対し、『もののけ姫』では森を愛し人を憎む少女と、彼女と心を通わせ、共に生きる道を模索する少年が一緒に戦っていることか?

アニメの『ナウシカ』では王蟲は自然の象徴であったが、コミック版『ナウシカ』では腐海や王蟲そのものがかつての人類が造り出した生態系であり、腐海による環境の浄化が済んだ世界では、現在の人類はきれいな空気の中で生きることができないことが明らかにされるあたり絶望は深い。しかし、「生きねば」と言うのである。

サンが言う。「アシタカは好きだ。でも、人間は嫌いだ。」そして、アシタカはタタラ場で人々と共に暮らし、そして、また、サンに会いにくると言う。

いずれ尽きることだけは確かな命。単に遅いか早いかの問題であるのなら、なぜに、悩みを抱えつつ、のたうちまわって生きなければならないのか。より良く生きるには?わからないまま生きている。生きて、ずっと求めていれば、いつか、少しくらいは分かることもあるかもしれない。そう思いながら生きている。

—MURAKAMI-TAKESHI-IN-THOSE-DAYS————————————
当時の本 『わからなくなってきました』宮沢章夫(新潮社)九回裏、もう試合は決まったと思っていたら、一打サヨナラの場面。アナウンサーは無責任にも言う「わからなくなってきました」あんまりおかしいので電車の中でムフフと笑うのを避けて自室で腹を抱えた。
当時の世 次の週末は『THE END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の公開である。

 俺時々僕ところにより私
俺時々僕ところにより私
http://muccitexi.com/1997/07/22/the-end-of/
I, My, Me

当時の私 『エルマーの冒険』も見た。元TMNの宇都宮隆とTRFのYUKIの主題歌は、ちと浮いてた気がした。でも、ママとお子様ばかりの劇場にいる私の方が浮いてたかもしれん。YUKIが主人公の少年エルマーの声なのは当たりと思う。

 

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